
東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:福村博士
墳長92メートルの前方後円古墳
はじめに
東広島市には県内では最大規模の「国史跡」三ツ城古墳[みつじょうこふん]があります。
この古墳は「前方後円墳[ぜんぽうこうえんふん]」といって墳長(古墳の大きさを表す)が92㍍もある県内では珍しい形の大型古墳です。この古墳の成り立ちや古墳のさまざまな謎について紹介します。この記事を読んで三ツ城古墳をより身近に感じていただければと思います。三ツ城古墳を説明する前に、まず古墳に関する基礎知識を知っていただきたいと思います。

古墳の謎
◆古墳とは一体何ですか
その地域を治める古代の支配者たちのお墓(墳墓[ふんぼ])です。弥生時代の終わり頃3世紀半ばから平城京[へいじょうきょう]に都を定めた8世紀初めにかけて築かれたものを「古墳」と呼びます。
そして古墳時代に築かれた古墳の数は、20万基とも30万基ともいわれていますが、現在残るのは15~16万基といわれています。大きさは全長が10㍍前後のものから500㍍以上になるものもあります。
広島県の古墳の数はというと、約1万1千基あり全国6位といわれておりそのうち約4千基が三次盆地に集中しています。
◆古墳はどんな形があるの
古墳の主な形には、①前方後円墳 ②前方後方墳[ぜんぽうこうほうふん] ③円墳[えんぷん] ④方墳[ほうふん]の4種類があります。それぞれの形状の大きさ(全長)を計測すると、前方後円墳が最も大きくその後に前方後方墳、円墳、方墳と続きます。
「前方後円墳」の数は、5千基前後で実は全体の3%ぐらいしかありません。

◆どうして前方後円墳がつくられたの
3世紀頃〝倭[わ]〟国と言われていた頃、大和[やまと]を中心に吉備[きび]、出雲[いずも]、九州、東海などのゆるやかな連合国家でした。地域の勢力を一つにまとめるために墓制[ぼせい]を前方後円墳に決めて大和王権[やまとおうけん]をまとめていったといわれています。
最初に「前方後円墳」が築かれた場所は、大和王権が誕生した奈良県桜井市の三輪山[みわやま]の麓[ふもと]にある「箸墓[はしはか]古墳」といわれていますが、その近くには、最近よく聞く有名な纏向遺跡[まき むくいせき]があります。
◆どういった人物が埋葬されているの
「前方後円墳」を築くことができる人物は、大王や大和王権とのつながりが深い人物で地域の大豪族や首長[しゅちょう]クラスだといわれています。
◆古墳が築かれた年代はどうして分かるの
古墳の形は年代によります。お墓の埋葬の形(竪穴式石室[たてあなしきせきしつ]か横穴式[よこあなしき]石室)、古墳の石室から出土した副葬品、銅鏡、壺などの陶器類、勾玉[まがたま]、ネックレスなどの装飾品、刀や兜[かぶと]などの鉄製品や古墳の上に並べてある円筒埴輪[えんとうはにわ]、朝顔形[あさがお がた]埴輪、家形[いえがた]埴輪、馬など動物の象形[しょうけい]埴輪なども違いがあります。
東広島市内の古墳
◆東広島市内にはどんな古墳があるの
近くの古墳は、高屋町の白鳥[しらとり]古墳、西条町の丸山[まるやま]神社古墳や御薗宇[みそのう]のスクモ塚古墳等があります。
※6世紀以降に築かれたと思われる円墳は豊栄町、福富町、河内町、高屋町、西条町、志和町、八本松町、黒瀬町にも多数あります。
◆三ツ城古墳に埋葬された人物はだれですか
埋葬された人は、安芸[あき]の国(現在の広島県の西部)の大豪族か首長であったと推察されています。
三ツ城古墳から出土した須恵器[すえき]の器台[きだい]は、5世紀前半に大阪府堺市陶邑[すえむら]のTK73という登[のぼ]り窯[がま]で作られたことが分かっています。埋葬された人が大和王権と強いつながりがあった事が分かります。

◆三ツ城古墳の概要
史跡「三ツ城古墳」は、1号古墳、2号古墳、3号古墳の古墳群からなります。
昭和3(1928)年に地元の郷土史研究家によって発見されました。江戸時代の安芸の国の地誌[ちし]書である「芸藩通志[げいはんつうし]」によると、当時は山城跡として考えられていたようです。そしてこの古墳の名称は、横から見れば1号墳の後円部と前方部と2号墳の形が三つの山城に見えたので、「三ツ城」と言われるようになったようです。
最初の発掘調査は、26(1951)年に広島大学と広島県教育委員会により実施されました。その後、57(1982)年に国の史跡に指定され、62(1987)年から保存整備に伴う発掘調査が実施され、平成2(1990)年度から4年の年月をかけて文化庁の『ふるさと歴史の広場事業』により「三ツ城近隣[きんりん]公園」として整備されました。

◆三ツ城古墳の特徴
三ツ城1号古墳の築造は、出土品の須恵器の年代からおよそ5世紀前半(第15代応神[おうじん]天皇の頃)と思われます。
古墳の形状は、「前方後円墳」で全長約92㍍、後円部の直径は約62㍍、高さ約13㍍、前方部の幅は約66㍍です。前方部の幅が後円部より大きいのが、5世紀につくられた古墳の特長です。
※特に横から見た曲線は素晴らしい形をしています。
墳丘[ふんきゅう]は三段に築かれていてそれぞれの段の上には、円筒埴輪や朝顔形埴輪のほかに、前方部に鶏[にわとり]や水鳥[みずどり]、盾[たて]、靭[ゆき]、兜、短甲[たんこう]などの形象埴輪が建てられていました。このほかに衣蓋形[きぬがさがた]埴輪(古墳時代に羽根飾[はねかざ]りのついた日傘をモデルにしたもの)も各所に立てられて古墳全体では、約1800本の埴輪が使われていました。
古墳の斜面は、石(約7万5千個の葺石[ふきいし])で覆われ、埴輪と共に古墳を飾っていました。
古墳の左右のくびれ部には、祭壇と考えられる四角いかたちの造り出しがそれぞれあります。
※3世紀~4世紀前半の古墳にはこの造り出しがありません。
埋葬施設は、後円部に3基あり、1号と2号の埋葬施設は石を箱形に組んだ箱形石棺[せっかん]のまわりにさらに石を組んで一回り大きな部屋(郭[かく])を造っていて、それぞれに石の蓋があるという二重構造をした大変珍しいかたちの埋葬施設です。
古墳には、深さ約1㍍前後の周溝[しゅうこう](空濠[からぼり])がめぐっています。この埋葬施設は現地で実物が見られるようにガラスのカバーがかけられています。
終わりに
この西条の地は、古墳時代の「三ツ城古墳」や奈良時代の「国分寺、国分尼寺[にじ]」が造られ、安芸国の中心地であったことが分かります。
そして室町時代にはこの地を巡り大内[おおうち]氏、尼子[あまご]氏、毛利[もうり]氏らの領主により、鏡山城をめぐり多くの合戦がありました。
その後、戦国時代、江戸時代、明治・大正・昭和時代をへて平成7(1995)年には広島大学の移転があり、今や東広島市は広島県の中核都市として市民約19万人が住む学園都市になっています。
三ツ城古墳は、いまは古墳公園として市民の憩いの場所になっており、毎年10月には、キャンドルイベント、三ツ城古墳〝光の宴〟が開催されてにぎわっています。
〈参考文献〉
・古墳で読み解く日本の古代史「宝島社」
・史跡 三ツ城古墳 発掘調査と整備記録「東広島市教育委員会」
・三ツ城古墳について(パワーポイント)「東広島市教育委員会」
プレスネット編集部











