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東広島地歴ウォーク 台地に水を求めた二百年を歩こうー西条町郷曽・田口ー その①

  • 2025/09/29

 東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。

執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博


不思議な地名〝柏原[かしょうばら]〟

 今回は、西条町南部、郷曽と田口にある柏原地区を歩きます(図1)。柏原の地名は、大字[おおあざ]である郷曽と田口のどちらにもある小字[こあざ]名です。大字は概[おおむ]ね江戸時代の村(藩政村)にあたるので、別の大字に同じ小字名があるのは珍しいことです(なお郷曽は、藩政村である吉村と小比大河内村を合わせた地名)。

図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点
図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点

 この理由は、柏原地区が江戸時代後半の新田開発により、これらの村の境界付近に人が新たに住み始めた場所であったこと、明治になり新しい村ができた際、柏原地区は独立せず、藩政村の境界で分割されたことによります。しかし、新田開発時につくられた用水路の管理は、地区一体となって行う必要があったため、異なる村となっても地区としてのまとまりは明治以降も続きました。

唐櫨[からはぜ]への夢と失敗

 稲生[いなお]神社から南西に向かって直線的な道を歩くと、徐々に高くなっているのがわかります。これは、黒瀬川支流の小田山川がつくった扇状地です(図2)。扇状地とは山地を流れる川が低地へ注ぐ谷口にできる扇形の地形です。また、柏原地区の地形は、北は古河[ふるこう]川、東は黒瀬川本流、南は小田山川に囲まれた台地です。柏原は、かつての扇状地が三つの河川の侵食から取り残されて、台地になったのです(図3)。

図2 柏原地区の3D地形モデル 地理院地図より作成
図2 柏原地区の3D地形モデル 地理院地図より作成
図3 柏原地区の地形断面図
図3 柏原地区の地形断面図

 地点①には、道の左右に二つの池と、中の峠隧道[たおずいどう]之碑があります。この碑は、用水路の隧道(トンネル)と、それを推し進めた沖田嘉市[おきたかいち]氏を顕彰した もので、昭和52(1977)年に柏原郷水子(水子とは用水路を利用する農家)が建立しました(詳細は次号)。東の池は一番池、西の池は二番池と呼ばれています。両池は、江戸時代の新田開発の際に作られたものです。
 新田開発の経緯は、広島県立文書館に保管されている古文書『国郡志御用書上帳賀茂郡柏原 文政2(1819)年』と当時の絵図によって詳細に分かっています。元々、柏原は、二つの池や田畑もなく、近隣の村々が共有する草地でした。

地点① 一番池・二番池と中の峠隧道之碑
地点① 一番池・二番池と中の峠隧道之碑
地点① 中の峠隧道之碑
地点① 中の峠隧道之碑

 文化5(1808)年4月に広島藩の代官が見分にきて、ろうそくの原料となる唐櫨を植えることを決めます。その年の秋から植え始め、計1万3680本の櫨を植えたのです(図4)。台地は周りより高く、作物の水は基本的に雨水しかありません。そのため台地の土地利用は、水が少なくても育つ林・果樹園・畑となることが多く、木である唐櫨も適しています。藩としては換金できる商品作物である櫨を大規模に植えて収入を増やすことを考えたのでしょう。ところが、冬の寒さにより苗が枯れ、藩の目論みは頓挫[とんざ]したのです。稲生神社は、櫨がよく育つようにと願って、代官が勧請[かんじょう]した神社なのですが、成就[じょうじゅ]しませんでした。

図4 唐櫨が植えられたことを示す絵図
図4 唐櫨が植えられたことを示す絵図
右が北。広島県立文書館所蔵竹内家文書〔両原開地所絵図等〕(登録番号198801ー1909)の一部

再挑戦の新田開発

 それから数年後、藩は台地に水を送ることで、稲作地として柏原を改めて開発しました。それが、一番池・二番池なのです。
 文化13(1816)年に描かれた絵図(図5)をみると、小田山川から引かれた用水路が二つの池まで続いているのが分かります。ここに池を作った理由は、扇状地の中で最も高い位置にあたるためで、台地のほとんどの地域に水が行き渡ります。

図5 文化13(1816)年の柏原地区の絵図
図5 文化13(1816)年の柏原地区の絵図
上が北。広島県立文書館所蔵平賀家文書〔柏原絵図〕(登録番号198801_2743)の一部

 さて、翌年に描かれた絵図(図6)では、水を得る取り組みがさらに行われたことがわかります。二番池の西側に用水路(曲がり溝)を作ったことと、二番池の南に別の池(旧三番池)を作ったことです。曲がり溝は、現在の深道池(江戸時代は中の峠池)のある谷から引いてきていますが、絵図の時点では、まだ中の峠池はできていません。絵図には、ここに池の造築を願う付箋が貼られていて、この絵図は藩への請願書の附図[ふず]として描かれたと考えられます。

図6 文化14(1817)年の柏原地区の絵図
図6 文化14(1817)年の柏原地区の絵図
上が北。広島県立文書館所蔵平賀家文書〔柏原絵図〕(登録番号198801_2720)の一部

 一方、旧三番池があった場所に、現在池はありませんが、地点①近くの水田の名は「カライケ(空池)」と呼ばれていて、ここに池がかつてあったのでしょう。なぜ、この田がカライケと呼ばれるのかは、旧三番池に水がなかったからと思われますが、その理由は最後の回で紹介します。
 地点②に向かう道の脇には用水路があり、これは小田山川からの用水路です。地点②では南側に約10㍍の崖があり、急な坂となっています。崖の下は、小田山川とその谷底平野です。川沿いの田は、柏原の開発よりも前からありました。柏原へ送る水は、川沿いの田へ送った後の余り水だけとする取り決めがありました。しかし実際には、余り水はほとんどなかったのです。そのため文政2(1819)年に中の峠池も造築したのです。
 水利の整備が進む中、入植した人々は柏原に家屋を建て、田畑を開墾したのです。『書上帳』には、当時(文政2(1819)年頃)入植した農家が58戸、199人であったと記録されています。

〈参考文献〉
熊原康博(2017):扇状地性段丘地形における新田開発の水利の特徴―広島県西条盆地南部、柏原地区を事例に―.広島大学大学院教育学研究科紀要66、59-66.
弘胤 佑ほか(2018):19世紀初頭の東広島市西条盆地南部、柏原における新田開発初期の進捗過程―「国郡志御用書上帳賀茂郡柏原 ひかへ」の分析―.広島大学総合博物館研究報告10、 71-90.
横川知司・熊原康博編(2020)『西条地歴ウォーク』レタープレス

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プレスネット編集部

広島県東広島市に密着した情報を発信するフリーペーパー「ザ・ウィークリープレスネット」の編集部。

東広島の行事やイベント、グルメなどジャンルを問わず取材し、週刊で情報を届ける。

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