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東広島・西国街道に宿泊したベトナム象 四日市宿で記録された難渋の旅と、地域に刻まれた歴史ロマンをひもとく【東広島史】

  • 2025/11/01
享保のベトナム象(出典:国立国会図書館)
享保のベトナム象(出典:国立国会図書館)

 東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします
執筆:赤木達男

大陸とつながる「二つの回廊」

 広島県のほぼ中央に位置する東広島市は、山海の幸とおいしい日本酒に恵まれた歴史と文化の薫る〝まほろば〟のまちである。同時に百十数カ国の外国籍市民が暮らす国際学術研究都市でもある。この東広島が、古代から世界とつながる二つの回廊が通る要衝[ようしょう]だった。一つは海の回廊[かいろう]「瀬戸内海航路」、もう一つが陸の回廊「西国街道(旧山陽道)」である。
 西国街道は九州~大阪~京都~江戸へと続く街道の一つで、下関から京都までは約650㌔㍍ある。江戸時代には参勤交代の大名行列や商人、俳人の種田山頭火など日本人の旅人だけでなく、外国の使節、長崎出島のオランダ商館長やドイツ人医師で博物学者のシーボルトも歩いた「歴史の道」だ。

長崎街道地図(出典:旧街道ウォーキング 人力)
長崎街道地図(出典:旧街道ウォーキング 人力)

「象を見たい」 将軍・吉宗のひと声から始まった

 その西国街道を、なんとベトナムの象が通り、しかも西条四日市宿の本陣(御茶屋[おちゃや])に泊まったという記録が残っている。ときは江戸幕府ができて120年余り後、8代将軍・徳川吉宗が幕府財政の立て直しと幕府権威の回復を図る「享保[きょうほう]の改革」を進めていた頃のこと。その吉宗公が、「象を見たい」と望んだことがことの発端だ。
 享保13年6月13日(1728年7月29日)、雄雌2頭の象が37日間の船旅を経て長崎に着いた。が、雌象は到着後3カ月で長崎にて死亡。翌年の享保14年3月13日(1729年4月10日)、代官・宰領[さいりょう]など14人の運役[はこびやく]を伴として雄象は江戸に向け出発した。

初日から難渋! 豪雨で峠越え断念

 354里(約1400㌔㍍)、徒歩75日間の旅が始まった初日からベトナム象の旅は難渋[なんじゅう]を極めた。岡山大学付属図書館所蔵の『象御領内通候一件[ぞうごりょうないとうりそうろういちけん]』に、その様子がうかがえる一文が残されている。「象、昨日13日に長崎を出発したが、風雨が強くて山を越え難く、途中で宿し、今日、矢上宿[やがみじゅく]に着いた」という初日の様子に続き、「雨天時には山坂は滑るので、川砂でも海砂でも良いので敷き、石高(落石の怖れ)なる所は御取りのけを願う」というものだ。
 初日から象旅を苦しめたのは一体どの辺りだったのだろうか?想像してみるとこうだ。長崎を出発→日見宿[ひみじゅく]→矢上宿を経て永昌宿[えいしょうじゅく]に向かっていたところ空模様が怪しくなり、井樋ノ尾峠[いびのおとうげ]に差し掛かる頃、次第に風雨が強くなった。象も人も泥濘[ぬかる]んだ峠道を必死で登ったが、「将軍様にお届けする大切な象に万が一のことがあっては…」と、遂に峠越えを断念。
 〝ずぶ濡れ 泥まみれ〟の「濡れ鼠[ねずみ]」で矢上宿に舞い戻ったという惨憺[さんたん]たる初日だったのかも知れない。あくまでも筆者の想像である。

苦の坂峠から玖波宿への西国街道

命がけ! 関門海峡越え

 出発から10日、長崎街道25宿27里(約224㌔㍍)を踏破[とうは]したベトナム象、いよいよ西国街道に入るための関門海峡渡しだ。古来より瀬戸内海航路の西門に当たる関門海峡は難所の一つだ。狭く細長い海峡の潮の流れは6・7㌩(時速約12㌔)~9・7㌩(時速約18㌔)と速く、海流も複雑で日に4回変わる。
 参勤交代の大名は小倉城下の川から分乗した小舟で沖合の御座船に向かい、潮を見ながら海峡を渡っていた。ところが3㌧もの象を小舟に乗せるとひっくり返ってしまう。ましてや沖合で載せ替えることなど不可能だ。長崎奉行所の運役と小倉藩の役人が額を寄せ合い相談し合ったのだろう。下関までの海路が最も短い門司の大里[だいり]まで象を歩かせ、大きな石を運ぶ舟底が平らな石船で海峡を渡したと記録されている。
 しかし、先に紹介した通りの難所。逆立つ波と格闘しながら下関の赤間ヶ崎を目指した象一行、恐らくここでも「濡れ鼠」になり、幾度も転覆の危機に遭[あ]いながらまさに〝危機一髪命がけ〟の関門海峡渡しだったろうと思われる。
 これまた、下関から発せられた「象は殊[こと]の外[ほか]、水を恐るるに付き、道中、船渡しは可能な限り回避す可し」との「追触[おいぶれ]」からの想像である。

初日に難渋を極めたであろう井樋ノ尾峠

徳山藩の殿様もびっくり! 珍獣 広島城下に入る

 季節外れの寒波のため下関に4日間足止めされたベトナム象は、3月29日(4月26日)西国街道を上り始め、4月2日(4月29日)、在国中だった徳山藩第5代藩主・毛利広豊[もうりひろとよ]が見物したと徳山毛利家文書『御書出控[おかきだしひかえ]』は記している。つぶらな瞳、長~い鼻、うちわのような耳、〝のっし・のっし〟と歩くさま…。象を初めて見たお殿様の感想談が無くて残念。
 4月5日(5月2日)、ベトナム象は岩国藩との境にある「苦の坂峠」を越え広島藩に入り、福島正則が築き一国一城令で既に廃城となっていた亀井城跡を左手に見ながら小方宿を経て玖波宿に投宿。翌4月6日午後4時前、広島城下の宿に到着。
 広島県立文書館が10年ほど前に開講した「インターネット版古文書講座」資料によると、「宿所は広瀬組堺町二丁目(現在の広島市中区堺町一丁目)あたりの馬継場の裏庭があてられ、隣家の芥川屋との境の塀をくり抜いて小屋を作り泊まらせた」とのことだ。

象御領内通候一件(出典:岡山大学附属図書館)
象御領内通候一件(出典:岡山大学附属図書館)

265年の時を経て発見された貴重な歴史資料

 この講座に『象止宿之刻御附廻り御衆中宿々賄料之帖』というテキストがある。長崎奉行所の運役2人の夜食と朝夕2食、計3食の賄料[まかないりょう]に関する宿主・芥川屋の帳面だ。上役の賄料が家来よりも多いのが興味深い。なぜなら、長崎奉行所の「御触」には、「旅籠[はたご]料理一汁三菜、酒三遍[べん]、肴[さかな]一種、上下これ無く代一匁[もんめ]」と書かれている。上役の料理は高価だったのか? それは上役の意思、それとも賄[まかな]い方[かた](旅籠)の忖度[そんたく]? 現代でもありそうな「役得[やくとく]と忖度」が頭をよぎるのは筆者だけか。
 さらに興味深いのは、この帳面が1994(平成6)年、山県郡大朝町(現北広島町)の久枝家宅で欄間額[らんまがく]の下張りとして発見されたことだ。どのような経緯と経路で広島城下から大朝まで運ばれ、久枝家の欄間額に納まったのだろうか。そのまま芥川屋に保管されていたら、原爆で焼失していたかもしれない。265年の時空を数奇にたどった帳面。他にも〝どこかで眠っている〟であろう貴重な歴史資料に思いを致し、消失・散逸[さんいつ]を防がねばと心に刻む。
 今回は長崎から広島城下までの道中記をざっくりと紹介した。次回では興味津々の珍獣[ちんじゅう](象)を広島っ子はどう迎えたのか、西国街道最大の難所・大山峠越え、ベトナム象を迎え〝てんやわんや〟の四日市宿の様子などをお届けする。

〈参考文献〉
・『象御領内通候一件』(岡山大学付属図書館)
・徳山毛利家文書『御書出控』
・『象止宿之刻御附廻御衆中宿 宿賄料之帖』(広島県立文書館)
・『前近代ベトナムにおける象の国家的管理と象貿易』(ファン・ハイ・リン)

プレスネット編集部

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