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東広島地歴ウォーク 台地に水を求めた二百年を歩こうー西条町郷曽・田口ー その③

  • 2025/12/02

 東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。

執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博


素掘りの用水路

図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点
図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点

 深道池[ふかどういけ]の堤の下から水路が始まります(図1、地点⑥)。水路に沿って歩き始めると、右手の斜面に土がむき出しになった部分が見えてきます(地点⑦)。

地点⑦ 平成30年西日本豪雨で生じた土石流跡
地点⑦ 平成30年西日本豪雨で生じた土石流跡

 これは、平成30(2018)年西日本豪雨災害の際に生じた土石流の跡です。豪雨により、谷の頂部で崩壊が始まり、谷の中の土砂や、生えていた木々を押し流したのです。この地点をはじめ、数カ所でこの水路が土石流により破壊されました。

 この水路を上からみると、尾根と谷の出入りにあわせて曲がっており、江戸時代は曲がり溝と呼ばれていました。これは、水路の高低差を抑える目的で、等高線に沿ってつけられたためです。この水路の前半部は、土がむき出しの〝素掘り〟の水路で、江戸時代のままです(地点⑧)。ただし、曲がり溝の後半部は、谷を埋めて直線的な水路に変わっています。

地点⑧ 素掘りの曲がり溝
地点⑧ 素掘りの曲がり溝

 曲がり溝の水は、二番池へ注ぐとともに、二番池とカライケの田の間を通り一番池にも注いでいます。旧三番池跡の水田名が「カライケ(空池)」と呼ばれたのは、旧三番池へ入る曲がり溝からの水が制限されていたことが原因です。

台地を巡る水

 地点⑨には、池の水を取水するコンクリート製の斜樋があります。斜樋の表面には、高さの異なる取り込み口があり、斜樋内に管が入っています。取り込み口には木の栓[せん]があり、水位に応じて栓を取り外して取水します(詳しくは、東広島デジタル掲載「東広島地歴ウォーク 黒瀬町その2」を参照)。斜樋脇にはホワイトボードが建てられています。これは、農家が自分の水田に水を入れる時間を書くボードで、水の利用状況を他の方に伝えるためです。

地点⑨ 二番池の斜樋
地点⑨ 二番池の斜樋

 地点⑨の左手には、現三番池があり、その先には四番、五番、六番池が連なっています。これらの池は、台地を侵食する浅い谷を堰[せ]き止めた池であり、水をできるだけ有効に利用することを意図しています。
 稲生神社に向かって戻ります。一番池・二番池からの水のほとんどは、周辺の水田に行き渡った後、地点⑩の一本の水路に集まります。ここでは、さらに4本の水路に分かれています。地点⑩から北東側は、下柏原と呼ばれています(ちなみに一番池・二番池に近い地域が上柏原です)。下柏原では、水を一箇所に集めてから、公平に分配しているのです。ここにも、水の利用を伝えるホワイトボードがあります。

地点⑩ 下柏原の水路の分水施設
地点⑩ 下柏原の水路の分水施設
手前の水路は1本であるが、奥(下流)側で4つの水路(①~④)に分岐している。

 さらに水路から突き出たパイプがあり、これは北を流れる古河川[ふるこうがわ]からポンプで汲み上げた水の排水口です。深道池に水が貯まらない、あるいは水路が壊れた場合などに備えて昭和39(1964)年頃に設置されたのです。

石造物が語る双子神社

 ゴールの稲生神社の境内には、灯籠、鳥居、狛犬など多くの石造物が配置されています。ひときわ高い石碑は、〝沖田嘉市[おきたかいち]之碑〟です。台座にある金属板には、隧道[ずいどう]を掘るまでの経緯や沖田氏の功績が書かれています。

ゴール 稲生神社の境内
ゴール 稲生神社の境内

 沖田氏の碑の左にある石灯籠がこの神社で最も古い石造物です。灯籠の台座(竿)には、参道側に「開地繁栄 願主 寺西氏」(図2・左)、裏側に「文化七年庚午六月」と刻まれています。文化7(1810)年は、広島藩の代官が柏原に唐櫨[からはぜ]を植えた時期です。唐櫨が生育して開地が繁栄することを願って、その代官であった寺西氏が寄進した石灯籠なのです。また鳥居には「中野峠谷雨池寄附」「文政三年庚辰三月」の字や、中の峠池造築の費用を寄進した割庄屋[わりじょうや]の名が刻まれています。

図2 別々の神社にある石灯籠の同じ文面・字体の刻文
図2 別々の神社にある石灯籠の同じ文面・字体の刻文
左:柏原の稲生神社、右:三升原の稲荷神社。

 境内には新田開発が進められた文化7年から文政4(1821)年までに建立された石造物が12基あり、これらに刻まれた年号や寄進者の情報は、古文書『国郡志御用書上帳賀茂郡柏原』の内容とも一致しています。
 実は稲生神社から約3㌔㍍東にある三升原[さんじょうばら]の稲荷神社(西条町大沢図3)にも、新田開発時に建立された12基の石造物があります。稲生神社の石造物と同じ形状で、刻まれた文字の文面や字体も同一です(図2・右)。これは、広島藩がこれら2つの台地上の新田開発を、同時期に同じ手法で進めたことによります。同一の石造物を見ると、2社を「双子神社」と呼びたくなります。
 稲生神社の位置は、入植した吉郷村・小比曽大河内村・田口村の境界にあたります。異なる地区の人々が集まって一つの集落をつくる際、住民を結びつける装置として、神社が建立されたことを物語ります。

図3 飛行機から撮影した柏原と三升原の空撮
図3 飛行機から撮影した柏原と三升原の空撮
南に向かって撮影。黒瀬川の左(東)の台地が三升原、右(西)の台地が柏原である。

最後に

 今回は、3回にわたり西条町郷曽・田口の台地を歩きました。不利な地形に対応した開発の進捗[しんちょく]を、絵図・古文書・石造物から読み取ることができました。また水不足を克服した沖田氏や地域の人々の工夫が今も残っています。200年以上、台地に水を送る努力を続けていたのです。
 なお、2社の石造物群は、現在文化財の指定を受けていません。新田開発の歴史を紐解く貴重な文化財として登録され、多くの方に知っていただきたいものです。



〈参考文献〉
弘胤 佑ほか(2018):19世紀初頭の東広島市西条盆地南部、柏原における新田開発初期の進捗過程―「国郡志御用書上帳 賀茂郡柏原 ひかへ」の分析―.広島大学総合博物館研究報告10、 71-90.
岩佐佳哉・熊原康博(2018)広島県西条盆地南部、柏原・三升原地区の神社境内の石造物の同一性とその成立経緯.広島大学総合博物館研究報告10、103-1 10.



《ルートの距離》
稲生神社(スタート)ー【距離1・5㎞】→中の峠隧道入り口(地点③)ー【0・9㎞】→深道池の堤下(地点⑥)ー【2・1㎞】→ゴール
計4・5㎞

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プレスネット編集部

広島県東広島市に密着した情報を発信するフリーペーパー「ザ・ウィークリープレスネット」の編集部。

東広島の行事やイベント、グルメなどジャンルを問わず取材し、週刊で情報を届ける。

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