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東広島で400年間ほぼ変わっていない西条四日市の町並み紹介と南北を結ぶ道の移り変わり【東広島史】

  • 2025/08/01
西條農学校正門「西條四日市町並写真集」(東広島郷土史研究会 平成24年10月発刊)より
西條農学校正門「西條四日市町並写真集」(東広島郷土史研究会 平成24年10月発刊)より

 東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
執筆:國松宏史

400年ほぼ変わらぬ町並みの形状

宿駅西条四日市の町並み

 寛永10(1633)年西条四日市を宿駅と定め、藩直営の本陣(御茶屋)、問屋場[といやば](継立場[つぎたてば])を設置し宿駅としての体裁を整えた。
 幕末、広島藩が第二次長州征討(慶応2(1866)年7月6日開戦)に動員される幕府軍の宿[やど]を確保するため、宿泊可能な家屋を調査した「四日市町並み絵図」(縦21㌢、横258㌢)が残る。
 絵図には街道筋に並ぶ施設や戸主名が明示され、各建物の敷地、間取り、各部屋の畳数、湯殿の有無、蔵、物置、馬屋など敷地内の配置が詳細に記載され、当時の様子を知る貴重な史料となっている。
 この絵図の正確さは、平成10(1998)年から西条駅前区画整理事業の際に行われた「四日市遺跡発掘調査」で敷地や配置がピッタリ一致し正確性が実証された。

今なお残る四日市宿
四日市宿は東の古川[ふるかわ]から西の半尾川[はんのうがわ]までの東西約900㍍にわたる町並みで、宿屋や店などが軒を連れ、酒造蔵・役所・神社もありました。ここでは近年まで、そして今なお残る四日市宿の面影を紹介します。

 発掘調査後の広報誌に掲載された絵図に描かれている主な建物と施設を現在地と照らし紹介する。
 ①御茶屋(本陣)=現在と同じ場所。
 ②継立場(問屋場)=現在の歴史広場。
 ③脇本陣=東横イン藤田ストアー辺り。庄屋格 向胡[むこうえびす]祐一郎宅(部屋数14、畳数74)。
 ④枡形[ますがた]、番所[ばんしょ]、制札場[せいさつば]=西条駅南口交差点付近。 庄屋英助宅前の通りは、敵の侵入を防ぐ対策として道路が折れ曲がる枡形となり、近くに番所や制札場(法度[はっと]や掟書[おきてがき]を知らせる高札場[こうさつば])が設置されていた。
 ⑤社倉=山陽線黒橋の坂道を下った所(凶作や飢饉[ききん]に備えて穀物を貯蔵する倉庫)。
 ⑥旅籠[はたご]・木賃宿[きちんやど]=四日市宿の両端に並んでいた。普段は正業を持ち、旅人が来たら泊める程度の副業的な家が多かったと思える。
 街並みの形状は、現在まで400年間ほとんど変わっていない。当時の名残を示す2カ所を紹介する。

西条四日市本陣跡

 敷地は東西69㍍、南北66㍍、総面積4910平方㍍(1488坪)、部屋数29室、畳数は214畳半の藩内最大級の本陣であった。別名〝御茶屋〟と呼ばれた。興味深い記録として、8代将軍徳川吉宗が、象が見たいと買い求めた〝ベトナム象〟が、長崎から江戸までの道中の、享保14(1729)
年4月8日、本陣の庭に泊まったという記録がある。

問屋場(継立場)跡

 歴史広場右隅に「四日市宿継立場跡」、「江戸期商家小島屋跡」と2面に刻まれた石碑が建つ。また、石碑横の建物の壁に「江戸期の商家小島屋」について説明版がある。
 〝小島屋は江戸後期の1830年代前半に店を構え、四日市宿の御用「継立場」の役をやっていたようだ。継立場の役として、荷の取り次ぎから受け渡し、一時預かりを業務とし、荷の積み替えを
する広場を囲むように店・蔵・物置などがL字型に建ち並んでいた。また、店においては、為替・手形を扱う両替商やしょうゆ・酢を造る醸造業をやっていた。〟と紹介し、幕末期の〝四日市駅町並み絵図〟を並べて展示している。

継立場跡石碑
継立場跡石碑

南北を結ぶ道の整備

 南北に通じる道路整備は、明治時代後半(1910年頃)から始まった。

◆市尻通り

 白牡丹酒造より市役所東の通りである。
 往時より塩の道(海産物を運んでくる道)として浦部(広、三津)との往還道でもあり、四日市では最も重要な道であった。通りに面して、酒造会社や仕込み水用の井戸が並び、町役場、牛馬市(昭和30年代の一時期)、西條農学校、県立農事試験場が連なり、明治から昭和にかけて、政治・産業・教育の中心地であった。

◆朝日町通り

 御茶屋から御条橋に通じる通りである。
 明治33(1900)年県道呉・西条線が整備され、その連結道として、44(1911)年御茶屋から御条橋に通じる道が整備された。
 この通りは、黒瀬・呉方面へ連なる主要道路で、バスやトラックが行き交っていた。通りに面して多くの家屋や商店・旅館が軒を連ねた。

◆大坪通り

 「大坪」の名称の由来から古代条里制の名残を感じさせ、古くから存在していたと想像される。昭和8(1933)年から10(1935)年にかけて通りの改修が行われた。当時は国道2号、国道375号の一部が走る幹線道路であった。現在、JR山陽線を跨[また]ぐ吉行― 泉線の拡幅工事が進行中である。

◆中央通り

 西条駅前から旧国道2号までの通りである。
 昭和42(1967)年に西条郵便局、西条警察署、43(1968)年西条中央農業協同組合が岡町通りから移転してきた。47(1972)年大型ショッピングセンター西条プラザ(現ハローズ)の開店によって商店街の主役は中央通りに移り、西条の新たなメインストリートとなった。現在は、ブールバールの開通により、以前のにぎわいはかなり薄れてきている。

◆ブールバール

 西条駅から広島大学を結ぶブールバール(フランス語で「並木のある幅広い街路」)は、昭和54(1979)年から平成18(2006)年までの27年かけて完成した。「賀茂学園都市建設」という掛け声のもとに都市づくりを政策的に実施した。西条中央・西条駅前の土地区画整理という一大事業も含まれ、山間の田舎町であった東広島市を人口20万人に迫る都市へと変貌させた。

◆胡通り

 明治43(1910)年西條農学校の開設に伴い、農学校の裏門に通じる通りとして開設された。駅から一番近い通りで飲食店が連なっていた。西条駅前区画整理事業によりブールバールの道路となり消滅した。

西条を通る国道2号の変遷

〈1〉 西国街道 本通り・岡町通り

 江戸時代は西国街道、明治18(1885)年から国道2号として、昭和35(1960)年まで本通り・岡町通りを通っていた。

〈2〉新道開通(上三永~御条交差点)

「西條四日市町並写真集」(東広島郷土史研究会 平成24年10月発刊)より
朝日町通り 中国駅伝「西條四日市町並写真集」(東広島郷土史研究会 平成24年10月発刊)より

 昭和35(1960)年上三永~御条交差点の新道が完成した。御条交差点~大坪通り~市役所南~ハローズ駐車場前が国道2号となる。朝日町交差点は、中国駅伝大会(福山 | 広島)の第6中継所となっていた。

〈3〉 バイパス開通(御条交差点~ハローズ前)

 昭和39(1964)年御条交差点~アンフィニ広島~西条中央病院~ハローズ駐車場前にバイパスが開通し国道2号となる。

〈4〉西条バイパス開通

 平成5(1993)年上三永~八本松町宗吉に西条バイパス道路が開通し国道2号となる。JR西条駅から南方2㌔㍍を走る。

〈参考文献〉
 西条四日市の歴史散歩(東広島郷土史研究会)

プレスネット編集部

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