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東広島地歴ウォーク 幻の「静学館」と水力発電を歩こう ― 福富町下竹仁 その①

  • 2025/03/03

 東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。

執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博


図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点
図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点

下竹仁周辺の地形

 今回は、福富町下竹仁を歩きます(図1)。下竹仁地区は、三原へ流れる沼田川(ぬたがわ)の最上流にあたり、福富ダムによってできた〝しゃくなげ湖〟の西方に位置します。
 この辺りの地形的な特徴は、沼田川沿いの低地の様子が、宮崎神社南側の宮郷地区(地点⑨付近)を境に、上流と下流で異なることです。ここより上流にあたる竹仁地域センター(スタート地点)周辺は、集落や水田のある低地と川の高低差があまりなく、幅広い谷です(図2)。

図2 竹仁地域センター周辺の幅広い谷底平野。東に向かって撮影
図2 竹仁地域センター周辺の幅広い谷底平野。東に向かって撮影

 ところが、宮郷地区から下流では、川沿いの低地が狭く、低地から川までに崖が数段見られる高低差のある地形へと変わります。これは、谷を深くする川の侵食作用(下刻)の最前線が宮郷地区にあり、宮郷地区より下流では下刻が及ぶ一方、上流では下刻があまり及んでいないため、広い低地がセンター周辺に残っているのです。
 地点⑨周辺は、両岸に尾根が迫る峡谷になっています。周りより硬い地質で侵食が進まないため、それより上流の下刻が抑えられているとみられます。



「静学館」創立者 伊藤国次

 竹仁地域センターから橋をわたり、廃校となった旧竹仁小に進みます。学校敷地の脇に、大正3(1914)年10月に建立された「伊藤卜羊(ぼくよう)先生寿碑」があります(地点①)。卜羊は号であり、名前は国次でした。国次は天保10(1839)年に生まれ、広島で漢学などを修め、郷土に戻りました。明治6(1873)年に創立された竹仁小学校の校長も勤めていました。明治23(1890)年からは尋常小学校を終えた人が学ぶ私立学校「静学館」を自宅(地点⑩付近)周辺に建てました。
 後に、静学館は、豊田郡(竹仁村は賀茂郡ではなく豊田郡に属していました)に2つしかない旧制中学程度の学校として知られ、卒業生には軍の高官や医者になった方もいました。国次は、碑建立の翌年の大正4(1915)年に死去しています。

地点① 伊藤卜羊先生寿碑
地点① 伊藤卜羊先生寿碑

村政と教育の偉人 古玉寿太郎

 再び川を渡り、明眼寺の脇にある、昭和23(1948)年に建立された「古玉(ふるたま)寿太郎君頌徳碑」に向かいます(地点②)。碑の裏に「尤モ称スベキモノヲ村営電気事業トナス」の文が刻まれています。電気事業とは、大正13(1924)年に完成した水力発電のことで、当時竹仁村長であった寿太郎が傾注した事業です(詳細は次回)。

地点② 明眼寺脇の古玉寿太郎君頌徳碑
地点② 明眼寺脇の古玉寿太郎君頌徳碑
明眼寺の本堂は昭和13(1938)年造営で国の登録有形文化財。

 国会図書館デジタルコレクションで古玉寿太郎を検索すると、広島県師範学校(現広島大学教育学部)を卒業後、若くして小学校校長や、沼隈郡の教育行政の長(視学)を歴任しています。続いて世羅郡長など一般行政の高官を勤め、退職後、郷里の村長を引き受けたことがわかりました。
 興味深いことに、村長の就任と同時に静学館の館長(校長)にもなり、村長を辞めた後も館長を続けています。国次の死去後、静学館が維持・発展できたのは、教育にも通じていた寿太郎のおかげでしょう。寿太郎は昭和13(1938)年に72歳で亡くなりますが、その前年に静学館は閉学しています。ちなみに、福富小・中へ向かう橋の名は静学館橋(地点⑦)です。学校への橋を「静学館」と冠したところに、命名者の思いが伺われます。

地点⑦ 静学館橋の橋銘板
地点⑦ 静学館橋の橋銘板

立志伝中の実業家 藤田繁之

 幅の広い谷を北に向かって進みます。地点③には、昭和3(1928)年に建立された「藤田繁之君頌徳碑」が建立されています。
 繁之は明治2(1869)年に生まれ、広島県師範学校を中退後、大阪で株取引の仲買などで財をなします。その後、東京にでて北海炭鉱社長や映画会社取締役なども勤めた実業家でした。また数多くの慈善事業、そして母校の竹仁小学校や竹仁村の水力発電事業にも多額の寄付をしています。
 碑文には彼の功績が漢文で刻まれ、「村営電業直擲壱萬金資」の字も読むことができます。ただ、水力発電完成から2年後の大正15(1926)年に58歳で亡くなります。

地点③ 藤田繁之君頌徳碑
地点③ 藤田繁之君頌徳碑

碑に残る三人の縁

 古玉寿太郎と藤田繁之の生涯を並べると、寿太郎が繁之よりも3歳年上と年が近く、伊藤国次が校長を勤めた竹仁小学校を卒業した後、広島県師範学校に共に入学したことがわかります。その後の生き方は大きく異なりますが、寿太郎が尽力した発電事業に対して繁之が多額の寄付をしたのは、二人が竹馬の友であり、当時狭き門であった広島県師範学校の同窓生であったことが影響していたはずです。
 一方、繁之は竹仁小学校にも寄付をし、寿太郎は、静学館の館長を長く勤めています。これは、国次への学恩に対する二人の感謝の表現でもあったと思われるのです。

中世城跡を眺める

 地点③から尾根を越えて地点④に向かいます。地点④には、中世の〝ししど城跡″があります。ししど城跡には、丘の上に平たん面が残っています。また、地点⑤では低地から飛び出た独立丘である阿良井(あらい)城跡をみることができます。この丘は、沼田川や支流の下刻により、低地が取り残されたもので、丘の上は平たんです。阿良井城は、鎌倉時代以来、中世のある時期まで、竹仁一帯を治めていた児玉氏の居城とされています。

地点⑤ 阿良井城跡の空撮
地点⑤ 阿良井城跡の空撮

 実は、伊能忠敬がこのあたりを文化10年11月12日(1813年12月4日)に街道の測量のため、乃美(東広島市豊栄町)に向かって歩いています。忠敬の日記には「左四町斗古城跡 児玉大和守居城」と記されています。街道を歩いていた時に、「左手の四町(約440㍍)先に児玉氏の居城があった」という村人の話を聞き取ったのでしょう。

〈参考文献〉
 熊原康博・岩佐佳哉編(2023)『東広島地歴ウォーク』
 福富町史編さん委員会(2007)『福富町史』
 福富町教育委員会(1977)『福富町の歴史と文化財』

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プレスネット編集部

広島県東広島市に密着した情報を発信するフリーペーパー「ザ・ウィークリープレスネット」の編集部。

東広島の行事やイベント、グルメなどジャンルを問わず取材し、週刊で情報を届ける。

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