東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。
執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博

小学校建設を巡って
今回は、黒瀬盆地中央部、黒瀬町丸山・乃美尾(のみのお)・川角(かわすみ)を歩きます(図1)。黒瀬盆地の特徴は、黒瀬川沿いの低地だけでなく、小高い丘陵地の両方が見られることです。
東広島市黒瀬生涯学習センターからスタートします。地点①は黒瀬中央公園で、元々は中黒瀬小の敷地でした。園内には2本のセンダンの巨木(東広島市天然記念物)が並んでいて、明治45(1912)年に中黒瀬小の校舎が完成した際に植えられました。ここには土肥(とひ)元忠翁碑、平賀迅夫(はやお)翁記念碑の2基の石碑があり、どちらの碑文にも、小学校建設に関する記述があります。


元忠は、明治26(1893)年から昭和2(1927)年まで35年間にわたり、中黒瀬村長を勤めました。碑文には、村内の対立から和解をはかり、「(明治)四十四年中黒瀬尋常小学校を村央に統合新築せる勇断こそ積年の陋習(ろうしゅう)を一掃」と書かれています。
平賀迅夫翁記念碑については、その高さは5㍍を超え、正面に迅夫の上半身のレリーフがある珍しい形状です。碑文には、小学校建設地に関する対立の経緯が漢文で書かれています。

中黒瀬村は、江戸時代から続く九つの村が明治22(1889)年に合併してできました。合併時には天神小(現在の黒瀬郵便局あたり)など3校がありましたが、敷地が狭く教員も足りなかったため、小学校の統合が必要となりました。ところが、学校をどこに建設するかで5年間紛糾したのです。そこで、資産家であった迅夫は、対立を解消するために自らの資産を提供したものの、亡くなります。その遺志に報いるため、当事者で話し合った結果、〝村央″であるこの地に小学校を建てたのです。
さらに迅夫の息子である平賀九万三(くまそう)も、土地を提供したことが碑文に書かれています。二つの碑からは、迅夫・九万三親子が郷土の教育のために資金などを提供し、その意を汲んだ元忠が旧村間の対立をおさえ、小学校の統合新設を成し遂げたことがわかります。
私塾から公教育へ
地点②には、道標が道の脇にあり、「右ハくれひろしま 左ハひろあが」と刻まれています。左の道は、畑の間にあるあぜ道のようですが、この道が、明治時代までの西条と広を結ぶ街道でした。

道標がある道の分岐の山側には、大正12(1923)年建立の田坂先生頌徳碑があります。碑文によると、本名である田坂九一郎は、安政元(1854)年に生まれ、生家にあった私塾〝栖霞楼(せいかろう)塾″や広島師範学校(現広島大学教育学部)で学び、その後、天神小・中黒瀬小の訓導・校長を勤めます。つまり、九一郎は、統合前後の小学校の教員や校長だったのです。また、碑の礎石には、発起人として土肥元忠、平賀九万三の名前もあります。

少し進んだ地点③には、栖霞楼塾跡の碑があります。説明文の石碑には、九一郎の父田坂乙人が、豊前国(福岡県)の学僧の桂林悟澄(けいりんごちょう)を招き、栖霞楼塾を設立したと書かれています。

地点③から山際の野道を進みます。この細い野道も西条と広を結ぶ街道でした。この道から分岐する龍王山への道を上がります。わかりにくいのですが、山道から外れたところに、花こう岩の岩盤を削って作った悟澄を顕彰した碑があります(地点④)。文章を考え、字を書いたのは、広の長浜生まれの僧侶宇都宮黙霖(うつのみやもくりん)です。黙霖は、幕末に尊王倒幕思想を確立して全国を巡り、吉田松陰にも影響を与えたとされる人物です。悟澄は、黒瀬に来る前、長浜にあった私塾(石泉塾)に滞在しており、その縁もあって黙霖が碑文を書いたのでしょう。

石碑を通して、近世の私塾から近代の学校への過渡期の教育を担った人物を知ることができます。明治5(1872)年の学制発布によって近代的な教育が成立したわけではなく、江戸時代の学問の下地があって成立したことがわかります。
黒瀬盆地を眺めて
龍王山の頂上(地点⑤)まで上ります。見晴らしの良い場所で、黒瀬盆地を一望できます(図2)。賀茂台地で広く見られる赤瓦の屋根をもつ伝統的な家屋が見えます。少し見えにくいのですが、手前の黒瀬川は、直線で下流の方では蛇行しています。正面には、丘陵地に立地する広島国際大学が見えます。黒瀬では大学や住宅団地が数多く立地しているのは、耕地に不向きな丘陵地が広がっていたことが一因です。

広島国際大学の隣の山の斜面には、黄土色の筋が見えます。これは、平成30(2018)年の西日本豪雨災害の際に生じた土石流跡です。土石流は激しい雨をきっかけとして、谷沿いの木々や土を一気に押し流して、谷の岩盤を露出させたのです。現在でも、その岩盤が黄土色の筋として見えているのです。
〈参考文献〉
熊原康博・岩佐佳哉編(2023)『東広島地歴ウォーク』
黒瀬町史編さん委員会(2004)『黒瀬町史 資料編』
呉市ホームページ「宇都宮黙霖翁終焉の地」