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東広島地歴ウォーク 近代教育の始まりと2列の「直線」を歩こう ― 黒瀬町 丸山・乃美尾・川角 ―その③

  • 2025/06/30

 東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。

執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博


図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点
図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点

川をくぐる用水路

 地点⑪から地点⑫を流れる用水路は乃美尾(のみのお)用水と呼ばれています(図1、図2)。上流にある黒瀬ダム近くの黒瀬川から取水し、黒瀬川左岸の田津原まで続く全長約5・6㌔㍍の用水路です。この用水路は旧乃美尾村の水田に水を送っており、江戸時代初期の慶長16(1611)年に完成したとされ、400年以上の歴史があります。

図2 田津原周辺の空撮(撮影・横川知司氏)
図2 田津原周辺の空撮(撮影・横川知司氏)

 地点⑫では、黒瀬川へ排水する水路をせき止めて、脇の水路へ送る設備があります。この脇の水路の先には、川底の下を水路が通る伏越(ふせごし)の入り口(地点⑬)があります。伏越の部分は出口よりも低いのですが、逆サイホンの原理(図3)により水が自動的に出口から流れるのです。

地点⑫  黒瀬川へ排水する水路をせき止め、脇の水路へ送る設備
地点⑫ 黒瀬川へ排水する水路をせき止め、脇の水路へ送る設備
赤矢印は黒瀬川への排水路、黒矢印は伏越へ流れる用水路

 このあたりの黒瀬川はほぼ直線です。これは、昭和9(1934)年から昭和25(1950)年にかけて行われた工事によるものです。乃美尾用水の末端にあたる田津原は元々黒瀬川の右岸であったところが、この工事により左岸となりました。乃美尾用水を使う権利(水利権)を持つ田津原に、改修後もこの水を送る必要があり、伏越で川の対岸に水を送ったのです。

地点⑬ 伏越の入り口
地点⑬ 伏越の入り口
矢印の所に銘板がある。右上は銘板を拡大した3Dモデル。
図3 サイホンの原理
図3 サイホンの原理
 サイホンの原理とは、水で満たされた管の端を高い場所に、反対の端を低い場所に置くと、管の途中が高くても管の中の水が重力で低い方へ流れることをさす。管の途中が低い場合を「逆サイホン」と呼ぶ。伏越は逆サイホンにあたる。

川の直線化

 田津原橋を渡り、川の左岸へ行きます。地点⑭は旧黒瀬川(旧河道)の端にあたります。旧河道は周りより低いことが多いのですが、ここでは盛り土をして周りより高くしており、アパートや住宅が建てられています。
 地点⑮は伏越の出口です。銘板には「竣工 昭和十五年十二月」とあり、伏越が完成した時期が戦時中であったことがわかります。伏越はコンクリート枠の帯として川底で見ることができます。この枠の中に送水管が入っています。

地点⑮ 伏越の出口
地点⑮ 伏越の出口
黒矢印の所に銘板、赤印は伏越があるところ。左下は銘板の3Dモデル。

 川の直線化が行われた理由は、下流で二級ダムが同時期に建設されていたことと関係していると思われます。旧黒瀬川は蛇行していたため、増水のたびに蛇行の外側(攻撃斜面)に接した丘陵が削られて、大量の土砂が下流に運ばれていたはずです。直線化により丘陵の侵食をなくして、ダムへの土砂の堆積を減らす意図があったのでしょう。 

皿池 VS 谷池

 地点⑮から田津原神社前を経由して源田池へ向かいます。源田池は、江戸時代からあるため池で、神洗(かれい)川の水を引き込み旧川角村の田用水として使われています。低地に円形状の堤を囲って作る
〝皿池型″と呼ばれるため池です。皿池型の堤は長くなるため、堤の高さを高くすることは安全上難しく、結果として浅くなり表面積の割に貯水できません。
 一方、前回紹介した亀ヶ首池は周りの丘陵を侵食する谷を塞(ふさ)ぐ〝谷池型〟のため池です。谷池型の堤は、谷幅分の長さだけで良いので堤を高くできて水深が深くなり、効率的に貯水できます。
 仮に源田池がなければ、池のところに広い水田ができたはずです。あえて皿池型のため池を作ったのは、村の中で一番高いこの場所に、水田にするよりも神洗川からの水をためる必要があったからと言えます。

鉄橋がある理由

 地点⑯には鉄橋が架かっており、神洗川から源田池へ水を送る管を渡しています。鉄橋の下の川底をみると、乃美尾用水と同じコンクリート枠の帯が見えます。さらに地点⑰から川底をみると、同じように川を横切るコンクリート枠の帯が見えます。ここも黒瀬川の直線化に伴い、伏越の送水管があり、旧川角村へ水を送っていました。

地点⑯ 源田池へ水を送る鉄橋と破損した伏越跡
地点⑯ 源田池へ水を送る鉄橋と破損した伏越跡

 ただし、二つの伏越は現在使われていません。黒瀬川の直線化(短絡化)によって川の勾配が急になり、その結果、川の下方侵食(下刻)が生じました(図4)。もともとは川底より深い位置に伏越を埋めていたものの、下刻により川底に伏越が露出して破損したのです。その後、鉄橋によって送水管が黒瀬川を越えているのです。

図4 新旧の黒瀬川の模式的な川底の断面図
図4 新旧の黒瀬川の模式的な川底の断面図
 川底の勾配は仮定のものである。上流と下流にある星の位置と高さは変わっていないので、川が短絡化すると勾配が急になり、星の間の区間は安定的な勾配まで下刻が進み、川底の低下が生じる。

 地点⑲の川角橋から川底をみると、木の杭(くい)が多数打ち付けられており、杭出し水制と呼ばれるものです。この橋から上流で川が直線化しており急な勾配の下流端にあたります。杭出し水制によって川の流速を抑えて、川底の下刻を軽減させる働きがあります。
 ゴールの黒瀬生涯学習センターに戻ります。センターの玄関前の直線的な道路も、実は呉市の土地なのです。

地点⑲ 黒瀬川の川底に見られる杭出し水制
地点⑲ 黒瀬川の川底に見られる杭出し水制

終わりに

 今回は、黒瀬町丸山・乃美尾・川角を歩きました。この地域の近代の歴史が分かると同時に、その歴史が今にも影響を与えていることにも気付きます。ほぼ同時期にできた2列の直線「呉水」「黒瀬川」は、海軍の影響力を背景としたやや強制的な取り組みだったともいえます。
 なぜ、〝直線″を作ることができたのか、その原因を考えることは平和を考える教材にもなりうるのではないでしょうか。

《ルートの距離》
 黒瀬生涯学習センター(スタート)ー【距離1・1㎞】→田坂先生頌徳碑(地点②)ー【1・4㎞】→亀ヶ首池(地点⑥)ー【1・6㎞】→呉水の標石(地点⑨)ー【0・9㎞】→旧黒瀬川(地点⑭)ー【1・2㎞】→呉水の構造物跡(地点⑱)ー【1・3㎞】→ゴール 計7・5㎞

〈参考文献〉熊原康博・岩佐佳哉編(2023)『東広島地歴ウォーク』

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プレスネット編集部

広島県東広島市に密着した情報を発信するフリーペーパー「ザ・ウィークリープレスネット」の編集部。

東広島の行事やイベント、グルメなどジャンルを問わず取材し、週刊で情報を届ける。

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