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東広島地歴ウォーク 近代教育の始まりと2列の「直線」を歩こう ― 黒瀬町 丸山・乃美尾・川角 ―その②

  • 2025/06/03

 東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。

執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博


ため池の構造

図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点
図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点

 龍王山総合公園を出て亀ヶ首池を目指します(図1)。亀ヶ首池(地点⑥)は、周りを丘陵に囲まれた池で、丘陵を侵食する谷の出口を堤で塞(ふさ)ぐ形のため池です。

地点⑥ 亀ヶ首池の堤
地点⑥ 亀ヶ首池の堤

 一般的なため池の堤には、余水吐(よすいばき)・斜樋(しゃひ)・底樋(そこひ)があります(図2)。

図2 堤の一般的な構造を示した断面
図2 堤の一般的な構造を示した断面

 余水吐とは、堤の頂面(馬踏(ばふみ))より少し低くした排水口で、側面や底面がコンクリートで固められています。これは、余水吐の高さまで水が達すると、自動的に排水できるようにしたものです。土を固めた馬踏の上を水が流れると決壊することがあり、それを防ぐ役割があります。

 斜樋は池側の堤に沿って階段状の取入口と、堤斜面に平行するそれらをつなぐ管のことを指します。池の水位の高さに近い栓を開けることで、水の減りを最小限に抑えつつ、少しずつ取水できます。底樋は、堤の底に堤を横切って付けられた斜樋と水路をつなぐ管です。

 池の堤の斜面には、昭和33(1955)年に堤を改修したことを記念した碑があります。碑文には、斜樋や底樋に関する記述も見られます。

道標からわかること

 地点⑦には小道と国道375号線との交差点の角に道標があります。「左ハ吉川通、右ハ西條通」と刻まれていて、吉川は八本松町内の地名です。側面には建立者の名が刻まれています。国道を北に向かって歩き、神洗(かれい)川を渡ります。川のたもと(地点⑧)には、古い橋の親柱が置かれ「神洗橋」と刻まれています。

地点⑦ 国道375号線と小道の角にある道標
地点⑦ 国道375号線と小道の角にある道標

 黒瀬中学校がある丘陵を上り、地点⑨に向かいます。ここには「呉水」と刻まれた標石2基が水田の脇にあります(後述)。

地点⑨ 呉水の石標
地点⑨ 呉水の石標

 地点⑩には保光(やすみつ)神社があり、その境内に道標があります。すべての側面に文字が刻まれており、
「西 ひろ あが くれ
 北 ひろしま
 東 西條
 南 うちのうみ
 大正四年乃美尾(のみのお)青年会」
と刻まれています。〝うちのうみ″とは、漢字で内海と表記し、現在の呉市安浦町の中心部にあたります。神社前にある十字路の4本の道が、道標に刻まれた地名の場所に向かっていたのです。大正4(1915)年当時、この場所は乃美尾村であり、青年会とは、主に農村地域にあった知識の習得、風紀の改善、農事の改良等を行った若者の集まりでした。

地点⑩ 保光神社前にある道標と十字路(交差点)
地点⑩ 保光神社前にある道標と十字路(交差点)

 今回三つの道標を見ました(図3)。明治期の地図に、道標に刻まれた向きと地名を入れると、現在では狭い道ですが、当時は主たる街道であったことがわかります。例えば、地点⑩から広島に向かう道を進むと、地点②を通り、広島にたどり着くのです。つまり道標は、当時の街道を復元できる文化財としての価値があるといえるのです。

図3 明治期の地形図上に示した道標の位置と推定される街道(黄色)
図の範囲は図1と同じ。矢印と地名は道標にある向きと道標に刻まれた行き先の地名。縮尺1/2万分の1「中黒瀬村(明治32年測図)」。
図3 明治期の地形図上に示した道標の位置と推定される街道(黄色)
図の範囲は図1と同じ。矢印と地名は道標にある向きと道標に刻まれた行き先の地名。縮尺1/2万分の1「中黒瀬村(明治32年測図)」。

 現在は、車での移動となり、道の行き先を示す道路標識は、走行する車からも分かる大きなものです。しかしかつては歩く人が多く、小さな道標が道に迷わないための道路標識だったのです。

まっすぐな「呉水」

 地点⑨から地点⑪にかけて〝直線″が隠れています。それは細長い呉市の土地があることです。

 地点⑨で見た標石の「呉水」とは呉市水道局の略称です。地点⑪から西をみると、水田のあぜに幅約3㍍の間隔で対の標石がまっすぐ並んでいます。この標石の間が呉市の土地なのです。同じ所有者の水田のように見えていますが、実は呉市の土地によって分断されているのです。現在は、呉市に賃料を払うことで水田として使用しています。

地点⑪ 水田の地割に斜交する呉水の道標 対の標石の間が呉市の土地。
地点⑪ 水田の地割に斜交する呉水の道標 対の標石の間が呉市の土地。

 この土地の下には、西条町にある三永水源地と呉市の浄水場を結ぶ送水管が埋められていました。ただし現在は使われていません。呉水のルート上では、家屋などの建築物を建てることはできず、道路や庭、耕作地、空き地などになっています。送水管の保守作業に差し障りがないようにしたものと思われます。

 三永水源地の築造や、長さ約10㌔㍍の送水管の設置、呉市郷原から浄水場までのトンネル工事など、大がかりな土木工事が、戦時中に行われています。当時呉には海軍の全国的な拠点である鎮守府、軍艦などを建造する海軍工廠(こうしょう)や関連工場があり、戦況の拡大と共に人口が急増しました。そのため飲料水不足となり、その対策として、大工事が行われたのです。

 なお地点⑱には、水道の関連施設と思われる構造物が残っており、製造年とみられる「昭和十六年」の文字が鉄管に刻印されています。

地点⑱ 「昭和十六年」と刻印された鉄管 呉市の水道施設跡とみられる。
地点⑱ 「昭和十六年」と刻印された鉄管 呉市の水道施設跡とみられる。

〈参考文献〉
熊原康博・岩佐佳哉編(2023)『東広島地歴ウォーク』
岩佐佳哉・熊原康博(2023)法務省登記所備付地図データを活用した戦前期遺構のマッピングー広島県東広島市における旧呉市上水道の事例ー、E-journal GEO、 18巻2号
東広島デジタル「東広島地歴ウォーク吾妻子の滝周辺を歩こう その②」
文部省(1981)『学制百年史』

【訂正】先月号で、「(中黒瀬村の)合併時には天神小など3校がありました」と記述していましたが、正しくは、合併から2年後の明治24(1891)年に天神小ができたことがわかりました(参考・梶井一暁(2008)近代日本における初等教育の地域的展開―広島県賀茂郡黒瀬地域の事例―.鳴門教育大学研究紀要23)。また、先月号の図1で川角池としていた池は源田池でした。

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プレスネット編集部

広島県東広島市に密着した情報を発信するフリーペーパー「ザ・ウィークリープレスネット」の編集部。

東広島の行事やイベント、グルメなどジャンルを問わず取材し、週刊で情報を届ける。

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