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東広島地歴ウォーク 台地に水を求めた二百年を歩こうー西条町郷曽・田口ー その②

  • 2025/11/04

 東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。

執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博


山を貫ぬく一念

 地点②から坂を下って、小田山川沿いの道を歩くと、水田が広がっています(図1)。このあたりの水田は、柏原[かしょうばら]で新田開発が行われる前からありました。

図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点
図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点

 道を進むと国登録有形文化財「中の峠隧道[なかのたおずいどう]」の標識があり、そこを右に曲がります。野道を進むと、その隧道(トンネル)の入り口(坑口[こうぐち])(地点③)があります。この隧道は、峠の下を長さ約300㍍掘ったもので、小田山川からの用水路と深道池[ふかどういけ](江戸時代は中の峠池)をつなぐために掘られました。坑口の手前で、隧道を経由して深道池に入る水路と、直接柏原へ行く水路の二つに分かれています。柏原へ行く水路は、新田開発の時に造られた水路にあたります。ただし、隧道入り口へつなげるため、新たに水路を造った部分もあります。

地点③ 隧道入り口手前にある用水路の分岐
地点③ 隧道入り口手前にある用水路の分岐

 この隧道は、坑口のアーチ部分が当時一般的であった石やレンガではなく、コンクリート造りである点が特徴です。当時としては珍しく、戦後に普及したコンクリート工法を取り入れた貴重な例とされています。もともとは、幅約0・7㍍の鉄筋コンクリート製の欠円アーチ(円の一部を切り取ったような、やや楕円[だえん]形の形)だけでつくられていました。落盤を防ぐため、昭和18(1943)年に坑口から長さ約3・8㍍の箱型トンネルが追加されました。隧道の文化財的価値が認められ、平成12(2000)年に国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。

地点③ 中の峠隧道入り口(坑口)
地点③ 中の峠隧道入り口(坑口)

 隧道は、柏原在住の沖田嘉市[おきたかいち]氏(図2)が昭和2(1927)年3月から一人で掘り始め、やがて村人が手伝うようになり、昭和5(1930)年8月に完成しました。

図2 沖田嘉市氏の肖像画
図2 沖田嘉市氏の肖像画

 隧道完成直後には、沖田氏は、郷土の難題を克服した偉人として中国新聞(昭和5年8月31日など)で紹介されました。その後、全国的な少年雑誌『少年倶楽部(昭和14年1月号)』(図3)では特集記事「事実美談 山を貫ぬく一念」として8ページにわたり取りあげられました。文の内容は一部間違っていたり誇張されたりはしていますが、全国の少年たちに、地域の苦難を自らの力で解決した立派な人として沖田氏の功績は広く知られたのです。

図3 『少年倶楽部(昭和14年1月号)』掲載の「事実美談 山を貫ぬく一念」の冒頭のページ。右下は表紙
図3 『少年倶楽部(昭和14年1月号)』掲載の「事実美談 山を貫ぬく一念」の冒頭のページ。右下は表紙

不稼働[ふかどう]な深道池?

 地点③から深道池に向かって峠を越えていきます。峠の道は、近年舗装され、歩きやすくなっています。地点④は隧道の出口で、水は深道池に注いでいます。そこから池沿いの野道を歩きます。深道池は、堤(地点⑤)で谷を堰[せ]き止めた谷池です。一方、前回取りあげた一番池と二番池は台地の上に堤で囲ってつくった、水を貯める能力が低い皿池です(谷池と皿池の違いは東広島デジタル掲載「東広島地歴ウォーク 黒瀬町 その2」を参照)。

地点⑤ 堤から撮影した深道池
地点⑤ 堤から撮影した深道池

 文政2(1819)年に完成した中の峠池は、賀茂郡内の割庄屋(郡を統括する庄屋)らの出資で造られました。この池は、柏原地区だけのため池で、不安定な小田山川からの水に頼らない独自の水源でした。しかも当時から堤の高さは16㍍もあり、高い貯水能力があったのです。ただし、池の深刻な問題は、池に入る水の量が極めて少ないことであり、そのことで柏原の人々は、長年干ばつに苦しんできたのです。
 実は、目の前に広がる低い山の斜面に降った雨の水だけが、この池に入る水なのです。ある地点(ここでは池)に雨水が最終的には流れてくる範囲のことを集水域といいますが、池の集水域が狭く水が溜まらないという問題を抱えていたのです(図4)。

図4 小田山川上空からの空撮
図4 小田山川上空からの空撮

隧道を掘った理由

 深道池の問題こそが、沖田氏が隧道を掘る決心をした動機でした。たくさん水を溜[た]められる池なのに、肝心の水がない。そこで隧道を掘って水を引き込めば、水を池に貯めることができると考えたのです。ただし、田に水が必要な春先から夏にかけて、小田山川から柏原への水は、ほとんどありませんでした。それは、新田開発時から続く取り決めにより、川沿いの田へ送る水が優先されたからです。しかし、秋から春にかけての冬場の農閑期であれば、川沿いの水田でも水は不要です。秋の彼岸(9月下旬)から春の彼岸(3月下旬)まで深道池へ水を入れることを、村長を通して川沿いの住民に承諾してもらいました。そして、沖田氏は隧道を掘ることを決断したのです。
 隧道ができてからは冬場にしっかり貯めた水を使って、柏原の人々は稲作を安心して行えるようになったのです。前号で紹介した中の峠隧道之碑(地点①)は、隧道からは離れていますが、多くの人が目につくところに隧道と沖田氏を顕彰するために建てた碑なのです。

〈参考文献〉
弘胤 佑ほか(2018):19世紀初頭の東広島市西条盆地南部、柏原における新田開発初期の進捗過程―「国郡志御用書上帳 賀茂郡柏原 ひかへ」の分析―.広島大学総合博物館研究報告10、 71‐90.
横川知司・熊原康博編(2020)『西条地歴ウォーク』レタープレス
農林水産省ホームページ「水土里の文化遺産 中の峠隧道」

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プレスネット編集部

広島県東広島市に密着した情報を発信するフリーペーパー「ザ・ウィークリープレスネット」の編集部。

東広島の行事やイベント、グルメなどジャンルを問わず取材し、週刊で情報を届ける。

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