東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。
執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博
急激に変わる関川の地形

関川発電所跡に発電所の地図記号があるのは地形図の間違い。正しくは、志和堀水力発電所の位置に置くべきです。

今回は、志和町志和堀を流れる関川[せきかわ]に沿って歩いてみましょう(図1)。スタート地点の志和堀地域センター周辺は、関川がつくる志和盆地にあり、平たんな土地が広がります(地点①)。

ところが、川沿いに県道を進むと、景色は一変します。谷幅が狭まる峡谷[きょうこく]になります。この劇的な変化は、関川がたどってきた長い歴史が関係しています。
実は関川は、もともと日本海に注ぐ江の川水系の川でした。しかし、南側から瀬戸内海へ流れる太田川の支流三篠[みささ]川が、長い時間をかけて侵食し、古関川に達しました。その結果、古関川の上流部は三篠川の水系となり、瀬戸内海へと注ぐようになったのです。これを河川争奪[かせんそうだつ]と呼びます。
峡谷は、三篠川の「侵食の先端」にあたる場所です。一方、上流の志和盆地は侵食が及ばず、江の川水系だった頃のゆるやかな地形が残っています。
ガス会社が水力発電!?

峡谷に入った地点②には、水力発電の取水堰[しゅすいせき]と、水路にゴミを入れないようにするスクリーン(除塵[じょじん]機)があります。ここで取り入れられた水は、斜面に沿って設けられたゆるやかな導水路を通り、下流にある志和堀水力発電所(地点③)へと送られます。

水力発電は、水が高いところから低いところへ落ちるときのエネルギーを利用する仕組みです。そのため、安定した水量と十分な落差が重要になります。関川は、上流に広い盆地があって水量が確保しやすく、さらに峡谷の箇所では高低差も大きいため、水力発電に適した川でした。
志和堀水力発電所は、1954(昭和29)年に運転を開始し、すでに70年以上にわたって稼働しています。当初は、地元の志和堀電化農業協同組合が運営し、得られた利益の一部は砂糖の配給や防犯灯の整備など、組合員や地域の暮らしを支えるために使われていました。
現在は広島ガスが経営を引き継ぎ、タービンや屋舎などの設備も新しくなっています。広島ガスホームページによると、地域に根差したクリーン電源である発電所の運営を通じて、カーボンラルの実現や地域の活性化に貢献すると書かれています。
二つの水力発電の違い

志和堀水力発電所からさらに下流へ進むと、広島市と東広島市の境を越えます。市境を過ぎてすぐに水力発電の取水堰跡があります(地点④)。さらに、取水堰から約750㍍下流にはかつて関川発電所がありました(地点⑤)。この発電所は1949(昭和24)年に運転を始めましたが、現在は廃止されています。現地には、発電所建設を記念した石碑や、圧水管を固定していた石積みが残り、往時をしのばせます。

裏面には、以下の文が刻まれてます。
「秋越村長奥田哲真氏は電化農村の建設に懸命の努力をいたされ昭和廿二年農村電化村としての指定をうけるや発電所の建設を計画し昭和廿四年十月関川発電所の完成をみたりこの偉大なる功績を久遠に伝えんがため之建
昭和三十一年九月 髙南村」
二つの発電所を比べると、発電量に違いがありました。志和堀水力発電所は落差が約26㍍あるのに対し、関川発電所は約15㍍しか確保できませんでした。関川発電所の落差が小さい理由は、当時の村境(現在の市境)より越えて取水できなかったこと、さらに発電所のすぐ下流に乳母堰と呼ばれる用水路の取水口(地点⑥)があるためです。

左の上半分が欠けた石碑は平成30年西日本豪雨で流出したものの下半分が発見されました。右の石碑は、災害後に地元の方が設置されたもの。乳母堰の由来は、江戸時代に、乳母として広島城に出仕した女性が、奉公を終え辞する際、郷里の水不足を訴えて関川に堰を造ることを願い出て、承諾され、堰が造られたことによります。(白木町見どころマップより)
水利権の問題で、違う村である志和堀から水を取ることはできないし、乳母堰を越えた下流に発電所を設けることもできないため、導水路を長くして、発電の効率を上げることが難しかったのです。
小水力発電を広めた織田史郎
この二つの発電所は、戦後の農村で広がった小水力発電の先駆けでした。その中心人物が、織田史郎という人物です。彼は、日本人初のオリンピック金メダリスト・織田幹雄の兄でもあります。織田氏は戦時中、中国電力の前身にあたる中国配電の幹部職員でした。終戦後に退職し、小水力発電を広めるため、水車や発電機を製造するイームル商会を1947(昭和22)年に立ち上げました。小規模でも導入できる水力発電に着目し、比較的短い導水路、小型の発電設備、地元による運営、電力会社への売電という仕組みを確立しました。その第一号が、関川発電所だったのです。
この取り組みは中国地方各地へと広がり、1960(昭和35)年頃には80カ所以上の小水力発電所が設けられました。イームル商会はイームル工業に社名を変えて、今も八本松町原に本社工場があり、タービンや発電機などを製造しています。クリーンなエネルギー生産として小水力発電が見直されている今日、現役の志和堀水力発電所は、織田氏の先見の明を物語る証しと言えるでしょう。
最後に
関川沿いを歩くと、地形の成り立ちと人の営みが重なり合う歴史が見えてきます。のどかな盆地、迫力ある峡谷、そして静かに働き続ける発電所。身近な風景の中に隠れた物語を探しに、ぜひ一度歩いてみてください。
〈参考文献〉
永井健太郎ほか(2009)「中国地方の小水力の歴史」長崎大学総合環境研究,12, 97-119.
「小水力発電の巨人 織田史郎」ミツカン『水の文化』39,28-33.
広島ガスHP (https://www.hiroshima-gas.co.jp/sdgs/activities/2025/250507.htm)
熊原康博・岩佐佳哉編(2023)『東広島地歴ウォーク』
〈ルートの距離〉
志和堀地域センター(スタート)ー【距離1.7㎞】→取水口(地点②)ー【1.5㎞】→志和堀水力発電所(地点③)ー【1.1㎞】→乳母堰(地点⑥)ー【4.3㎞】→ゴール 計8.6㎞













