東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。
執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博
八条原城と扇状地
今回は、志和町志和西、別府[べふ]、七条椛坂[しちじょうかぶさか]、奥屋の4つの地区を歩きます(図1)。散策のスタート地点である志和神社の参道には、広島藩八条原城跡の碑が建っています。

江戸時代最後の年の1868(慶応4)年、広島藩は戊辰戦争の拡大や外国軍艦出現を受け、海に近い広島城とは別に、新たな拠点を探しました。その候補地として選ばれたのが八条原でした。同年7月には藩庁の工事が始まり、藩主・浅野長訓[あさのながみち]も来村したと伝えられています。

しかし、その後、政情は安定し、1869(明治2)年12月には工事は中止されました。神社の裏手に広がる山麓には、現在も石塁や土塁が残されています。また、参道の手水[ちょうず]鉢は、城で使われる予定だったものとされています。
志和神社から南へと下ります。傾斜のある地形は、関川の支流である乗本川が形成した扇状地で図2を見ると、関川が志和小・中の近くで、左側(東側)の山際に寄っています。学校周辺は乗本川の扇状地上にあり、扇状地の押し出しにより関川の河道がずれているのです。

南西に向かって撮影。志和小・中は、2022(令和4)年に開校した小中一貫教育校です。
地点①には、志和神社の鳥居があります。一見すると神社から離れた不思議な場所にあります。鳥居の正面を北東ー南西に走る道は、江戸時代から続く街道だったからです。この道は、吉舎街道や往還道と呼ばれており、伊能忠敬[いのうただたか]も通過しました。
この街道を境に、山側は「八条原」、川側は「八条」と呼ばれてきました。「八条原」という地名は、八条の未開地であったことに由来しています。
デンマーク型教育!?
清涼飲料工場前(地点②)には、丸山㪅[かわる]氏の銅像があります。碑文によれば、丸山氏は1895(明治28)年に志和に生まれ、前半生を青年教育にささげました。戦後は西志和村長を務め、村が合併して志和町となった後には町長にも就いています。なお、西志和村は、今回取りあげる4地区に冠地区を加えた村で、明治中頃から1955(昭和30)年まで存在しました。

像の左右には、丸山氏自身の句碑があります。句碑①は「古稀近く求めて進む法の道 過去の事蹟は反古に等しき 善栄」、句碑②は「たとい身は地の火風と消え去るも こころは永久に志和をみるらん 善栄」と刻まれています。句碑①の「過去の事蹟」とは、丸山氏が主導した青年教育・耕地整理事業のことを指すとみられます。句碑②の裏には「在米有縁者建之」の文字が刻まれています。
丸山氏の生い立ちや経歴は、『広島農人伝』に詳しく記されています。それによると、丸山氏が力を注いだ「青年教育」とは、地元の青年に土地改良や品種改良を学ばせ、農業の近代化を進めることを目的としたものでした。丸山氏は西志和村農業補習学校の教員として勤務し、生徒のみならず地域住民も動員して、耕地整理事業(詳細は次号)を実践するなど、地域全体を巻き込んだ活動に取り組みました。
丸山氏の活動は全国的にも注目され、この学校は「丁抹[デンマーク]国民学校」の好例として、戦前の多くの書籍で紹介されました。
丁抹国民学校とは、フォルケホイスコーレと呼ばれる成人教育機関のことで、「民衆による民衆のための教育」を理念とし、教室での知識教育よりも、農家での実習など実践的な学びを重視する点に特徴がありました。大正から昭和初期にかけて、農村から都市へ人々が流出する中で、こうした教育の試みは、農村の衰退を防ぎ、地域に根ざした人材を育てようとする取り組みとして位置づけられていたのです。
地点③には「寶祚無窮[ほうそむきゅう]」の碑があります。これは、天皇の皇位とその栄光が永遠に続くことを意味する言葉で、1928(昭和3)年の昭和天皇即位の大礼を記念して建立されたものです。碑前の直線道路は1891(明治24)年に整備されたものです。
地点④には、明治から大正時代に西志和村長を務めた矢野久次郎氏の頌徳[しょうとく]碑が建立されています。
地点⑤は、2022(令和4)年3月に廃校となった西志和小学校跡(現・西志和地域センター)です。ここにはかつて農業補習学校も置かれていました。
校庭にある侍従御差遣[じじゅうごさけん]記念碑は、摂政(のちの昭和天皇)の侍従(側近)が農業補習学校を訪問したことを記念したものです。同校が高い評価を受けていたことを物語っています。

下のグラウンド脇には、大山正樹翁頌徳碑があります。大山氏は、農業補習学校が設立された時期の村長であり、丸山氏の要望を受け止め、反対の声を抑えながら学校設立に尽力しました。

碑に残る移民の跡
グラウンド脇には結晶片岩でつくられた頌徳碑もあります。碑文は判読しにくいものの、小学校への寄付に関する内容が刻まれています。碑文には「米国」という文字が2回刻まれており、アメリカへ移住した方からの寄付を示します。

碑面にある赤い四角のところに「米国」と刻まれています。左上は、「米国」の文字の3Dモデル。
『広島農人伝』には、少年期の丸山氏の思い出として、同級生の中には、郷土を離れてアメリカへ移民する者が多かったことが記されています。明治後半から大正期にかけて、西志和村からハワイ、ブラジル、フィジー諸島などへ多くの人々が移民として旅立っています。
地点⑥には、谷川和穂先生頌徳碑と、和穂氏とその父である昇氏の経歴を記した碑が並んでいます。両氏とも国会議員でした。昇氏の父は西志和村奥屋の出身で、戦前アメリカ・カリフォルニア州で食品店を営み、日系人社会の有力者でした。その縁もあり、昇氏や和穂氏はアメリカの大学を卒業しています。

先述した地点②の丸山氏の銅像脇の句碑裏面にも「在米有縁者建之」の文字が刻まれています。現在では碑文からしか知ることはできませんが、こうした痕跡をたどると、この地が「移民の村」とも呼べる土地柄であったことが伺えるのです。
〈参考文献〉
神田三亀男(1962)『広島農人伝』広島農村文化会議事務局
村田宇一郎(1925)「広島縣の丁抹国民学校」斯民20,中央報徳会
広島県(1993)『広島県移住史 通史編』広島県
竹田順一(1929)『在米広島県人史』在米広島県人史発行所
西志和まちづくり自治協議会(2022)『郷土誌「ふるさと志和」西志和小学校148年の歩み』西志和まちづくり自治協議会















