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東広島地歴ウォーク 拓かれた土地と移民の跡を歩く ー 志和町ー 志和西・別府・七条椛坂・奥屋 その②

  • 2026/03/03

 東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。

執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博


腰部を埋む深田

図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点
図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点

 地点⑦には、1950(昭和25)年に建立された耕地整理記念碑があります(図1)。裏面には「(周辺の)大半は腰部[ようぶ]を埋む深田にて牛耕不可能剩[あまつさ]へ農道なく畦畦を通路とし耕作甚だ苦難たり従て生産極めて僅少[きんしょう]なりし」という文字が刻まれています。

地点⑦ 耕地整理記念碑
地点⑦ 耕地整理記念碑

 これは、関川の最上流部の谷底が支流の小野[この]川の扇状地によって閉塞されたことで、排水が困難な土地であったためと考えられます(図2)。

図2 関川最上流の3Dモデル
図2 関川最上流の3Dモデル(地理院地図より作成)

 また碑文には、「丸山㪅[かわる]氏土地改良を熱叫し氏の指導により」とあり、丸山氏が先頭に立って主導したことが書かれています。工事は、道路を整備し、水田の下に排水を良くするための暗渠[あんきょ](地下水路)を設置することで、1929(昭和4)年から丸4年かけて完成しました。対象となる耕地面積は76.8㌶(77町4段)にも及びました。

 正確な範囲はわかりませんが、76.8㌶の面積から推定すると、西志和地域センター周辺から山陽道の奥屋PA付近までの関川の谷底沿いとみられます。当時は土木機械もなかったことを考えると、その作業は大変なものだったと思われます。

黒川三郎左衛門の功績

 地点⑧には二宮神社の参道にある鳥居と頌徳碑[しょうとくひ]があります。木製の鳥居は、厳島神社の大鳥居と同じく、2本の本柱の前後に低い控柱がある両部鳥居です。一方、頌徳碑は、碑の真下にある用水路を管理・保守していた森田濵之助氏を顕彰する碑であり、1937(昭和12)年に建立されました。

地点⑧ 二宮神社前の鳥居と森田濵之助氏頌徳碑
地点⑧ 二宮神社前の鳥居と森田濵之助氏頌徳碑

 この水路に沿ってしばらく歩きます。地点⑨では現在の林道脇の水路と、江戸時代から続く素掘りの水路の両方を見ることができます。

地点⑨ 現在の林道脇水路と江戸時代から続く素掘り水路
地点⑨ 現在の林道脇水路と江戸時代から続く素掘り水路

 地点⑩には、林道および水路の完成を記念して、2000(平成12)年に建立された石碑があります。地点⑪は、平成30年西日本豪雨災害の際土石流が発生した場所で、現在は復旧工事がなされ、砂防堰堤[えんてい]が築かれています。

地点⑪ 貞岡川の砂防堰堤
地点⑪ 貞岡川の砂防堰堤 この川は西日本豪雨災害の際に土石流が発生しました。

 地点⑫には黒川三郎左衛門の顕彰碑があります。この碑の場所にたどり着くのは少し難しいのですが、ぜひ行ってもらいたいです。地点⑪から東へ曲がる道を約40㍍下ると、道を横切る素掘りの水路と右手に野道があります。野道を約30㍍進むと墓所があり、その右手に碑があります。

地点⑫ 黒川三郎左衛門の顕彰碑
地点⑫ 黒川三郎左衛門の顕彰碑
 碑石の四面に以下の文言が刻まれています。
「此郷水乏而常為旱損之患矣干時黒河三郎左衛門吉則君 平高岸埋深谷山之半腹穿石鑿溝数里而作陂終除此患也 郷中慶賞常慕其功烈勲労矣 享年八十有二以文化二年五月三日卒 我輩哀悼靡所寘其念永伝子孫為令知其恩刻石紀功 庄屋 太良右衛門 同役 吟兵衛 組頭 増右衛門 願主 上別府郷中」

 三郎左衛門は賀茂郡志和東村の庄屋だけでなく、周辺の村々を管轄する割庄屋でした。割庄屋であった1765(明和2)年に、彼の指導の下で小野原[このがはら]池(現在は小野池の底)が造築されました(図2)。さらに、三郎左衛門は別府[べふ]村に池の水を送るため、険しい山腹に緩やかな勾配をもつ長さ約3㌔㍍の水路を整備し、それが素掘りの水路です。この地域は、雨が少ない上に、関川の最上流であり水が足りないことから、三郎左衛門は池と水路を開発したのです。

 地点⑬には、新しい水路に設置された石製の分水盤があります。分水盤とは、主水路と近くの水田へ送る脇水路とにわけるものです。ここより下流へ多くの水を送る必要があるので、水を分配する比率は主水路がかなり大きくなっています。この分水盤は、素掘りの頃からのものです。昔からの水の配分を維持するため、分水盤は古いものを再利用したのでしょう。

地点⑬ 現在の水路にある石製の分水盤
地点⑬ 現在の水路にある石製の分水盤

戦争をまたぐ耕地開発

 地点⑭にはコンクリート張りの水路があります。これは戦時中から戦後にかけて大規模な開発の時につくられました。日中戦争最中の1939(昭和14)年に西日本で深刻な干ばつが生じて食糧自給体制に不安が生じました。そのため、農地の造成と改良促進を目的とする農地開発法が1941(昭和16)年に制定されました。

 西志和村では、法律制定前から開墾を求める陳情を農林省にしていたことから、農地開発法で規定された農地開発営団の設置が翌年に認可され、この営団の下で地元住民・青年団・生徒の勤労奉仕によって八条原の開墾と小野池の造築、用水路の整備が進められたのです。当時広島市宇品にあった陸軍船舶司令部(通称、暁部隊)も駐屯して開墾が進められ、ジャガイモやサツマイモが植えられていたとされます。この開発は、終戦時に中断されたものの、戦後に再開され、開墾地には疎開者や大陸からの引き揚げした方も入植しました。小野池の堰堤の造築は1950(昭和25)年に完成しています。

 地点⑮は、水路が分岐している部分で、地点⑬の石製の分水盤と似た構造をしています。主水路はそのまま北へ延びて乗本川を越えています。

地点⑮ 昭和時代の水路にある分水盤 
地点⑮ 昭和時代の水路にある分水盤 

 この水路は乗本川の扇状地と山地の境界部を等高線に沿ってつけられており、八条原の扇状地が林から水田へと転換したのです。分岐された水路の水は、開墾でつくられた田へ送られています。ただし、現在は畑や倉庫などに転換し、水田が減少しています。

おわりに

 志和町志和西・別府・七条椛坂[じょうかぶさか]・奥屋を歩くと、緩やかな扇状地や盆地の谷底、山腹を縫う用水路など、さまざまな地形を体感できます。また、記念碑からは、この地域の農業の近代化に尽力した先人や、海を渡った移民の足跡も読み取れるのです。



〈参考文献〉

渓口誠爾・花谷 武(1976):『広島県の溜池と井堰ー土地に刻まれた歴史と人物』たくみ出版株式会社.
西志和まちづくり自治協議会(2022):『郷土誌「ふるさと志和」西志和小学校148年の歩み』西志和まちづくり自治協議会.
熊原康博・岩佐佳哉編(2023)『東広島地歴ウォーク』レタープレス



《ルートの距離》

志和神社(スタート)ー【距離1.1㎞】→丸山氏銅像(地点②)ー【1.7㎞】→西志和地域センター(地点⑤)ー【1.7㎞】→二宮神社鳥居(地点⑧)ー【2.5㎞】→昭和時代の水路(地点⑭)ー【1.6㎞】→ゴール
計8.6㎞

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プレスネット編集部

広島県東広島市に密着した情報を発信するフリーペーパー「ザ・ウィークリープレスネット」の編集部。

東広島の行事やイベント、グルメなどジャンルを問わず取材し、週刊で情報を届ける。

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