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東広島地歴ウォーク 丘の上にある城下町を歩こう ―高屋町白市― その②

  • 2024/11/06

 東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。

執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博


図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点
  緑色は江戸時代の街道ルート
図1 地理院地図に示した散策ルートと観察地点 緑色は江戸時代の街道ルート

地域の中心地として

 立町と栄町の交差点には、亀を台座にした島井乙吉君之碑(地点⑫)が建っています(図1)。このような碑は亀趺(きふ)と呼ばれています。元々は中国の風習ですが、日本では大名や地域の偉人を弔う墓に使われたようです。当時の官報を検索すると、島井氏は日清戦争で軍功を挙げた後、日露戦争で戦死し、遺族に弔慰金が贈られていました。

 地点⑬には、丘の地層が見える崖があります。この地層は、水平な砂層が何層も積み重なっており、川が運んで堆積したものです。つまり、この丘は過去の河川の広い河床が起源であり、谷の侵食によって河床が分断され、幅のある丘になったと考えられます(図2)。


地点⑬ しま状の砂層からなる川の地層
地点⑬ しま状の砂層からなる川の地層
図2 白市集落の色別標高鳥瞰図
地理院地図より作成。高さは水平方向に対して2.5倍に強調
図2 白市集落の色別標高鳥瞰図
地理院地図より作成。高さは水平方向に対して2.5倍に強調

 見事な山門のある養国寺の脇を通り、地点⑭には「大詔喚發(たいしょうかんぱつ)記念用水池」の碑があります。かつて長方形の防火水槽(用水池)がありましたが、現在は碑だけ残っています。大詔喚發とは、天皇が重大な事柄を国民や国の内外に伝えることです。昭和16(1941)年12月8日に出された米国、英国との宣戦布告を指していると思われます。

 本町筋を少し下ります。地点⑮には旧木原家住宅があります。この家には寛文5(1665)年の銘が入った鬼瓦が残ることから、江戸初期の町屋とされています。瀬戸内地域でも特に古い建築物として国の重要文化財に指定され、一般に公開されています。白市の家屋の多くは、赤瓦を用いていますが、旧木原家住宅は、灰白色の瓦を用いていて目立ちます。


地点⑮ 旧木原家住宅
地点⑮ 旧木原家住宅

 木原家は、醸造業や両替商、塩の取引、竹原の製塩業などを行う豪商でした。家の裏庭には、四角い石組みの井戸と片流れ屋根の水場が並んでいます。水場は、城山から水道管を通じて運ばれた水をためた施設です。一方、石組みの井戸は、深さ10㍍を超える深いものです。

 住宅を出ると、右手に恵美須神社(地点⑯)があります。神社を囲む玉垣をみると、京都や大阪など遠方の人も寄進しています。このことは、白市が西日本の中心地と経済的につながっていたことを伺わせます。

 栄町に戻り西に向かって歩きます。右手に伊原惣十郎家、左手に伊原八郎家が見えてきます。惣十郎家は明治期に、八郎家は大正期に建てられており、白市は江戸期から近代にかけての古い建築物が保存されています。

 惣十郎家の裏庭には、旧木原家と同様に、城山からの水をためる水場(地点⑰)があります。水場の縁には溝があり、満水になると、その溝から水があふれます。この余り水が道路下の水道管を通じて、共用水場(地点⑪)へ送られていたのです。


地点⑰ 伊原惣十郎家の裏庭にある水場と井戸
地点⑰ 伊原惣十郎家の裏庭にある水場と井戸

 惣十郎家を改修して炭火焼きの飲食店が近々オープンします。開店中であれば水場を見学させてもらえるとのことです(定休日は月曜・火曜)。



奇妙な石碑の謎

 地点⑱には稲荷神社があり、神社の前には三差路があります。北からの道は三次(みよし)に至る道、栄町は西条と三原を結ぶ道、本町から南への道は竹原へ行く道と、白市は交通の要所でもあったのです(図1)。特に、瀬戸内海の塩を内陸に運ぶ経由地として、白市は重要な役割を果たしていました。


地点⑱ 稲荷神社と表彰碑
地点⑱ 稲荷神社と表彰碑  力比べをした〝力石〟もあります。

 神社の境内に、「中谷寅吉君之表彰碑」が建っています。この碑はかなり奇妙です。当時の新聞を検索すると、寅吉は白市の人ではなく尾道に在住していたようです。また、裏の碑文は全部で12行ですが、最初の9行は白市の歴史の記述で、寅吉の記述は最後の3行だけです。そこには、白市の活気が失いつつある時期に、寅吉が義侠(ぎきょう)を持って努力し、部下を励まして盛り上げたとあります。さらに謎なのは、碑の周りの玉垣には、木下曲馬団(木下大サーカスの前身)などから寄進されたものもあるのです。


地点⑱ 曲馬団・動物園の玉垣
地点⑱ 曲馬団・動物園の玉垣

 白市は、毎年5月に県内有数の規模で牛馬市(大市)が開催されていました。その際、通りには露天商が立ち並び、土神社の敷地でサーカスが行われたこともあったようです。寅吉が尾道在住の露天商の元締めであり、大市の隆興に一肌脱いだのではと推測すると、つじつまが合うと思います。

 神社から西へ進む道は急坂で、谷の侵食によってできた崖です(図2)。坂の石垣には石垣修理にお金を寄進した人の名前・居住地や、寄進した年号(安政3(1856)年)が刻まれた石がはめ込まれています。竹原、尾道、大阪の方など白市以外の人が寄進しています。


地点⑱ 石垣寄進者の名などが刻まれた石
地点⑱ 石垣寄進者の名などが刻まれた石

 大市の期間、トラブルを避けるため、崖の上は露天商のエリア、崖の下は博労(ばくろう)(牛馬を扱う人)のエリアとすみ分けをしていました。その境を示すため、筵(むしろ)(わら・い草などで編んだ敷物)で作った、大市の時だけの一時的な鳥居が建てられていました。その風習は長い間途絶えていましたが、令和6年6月に有志の方が「むしろ鳥居」を復活させたのです。同時に歌や踊りを披露するイベントなどを行うお祭りも盛大に行われました。

〈参考文献〉 熊原康博・岩佐佳哉編(2023) 『東広島地歴ウォーク』
東高屋小学校(1951)『東高屋村郷土誌』


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プレスネット編集部

広島県東広島市に密着した情報を発信するフリーペーパー「ザ・ウィークリープレスネット」の編集部。

東広島の行事やイベント、グルメなどジャンルを問わず取材し、週刊で情報を届ける。

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