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(MON)

 第50回 「初Vに貢献。外科医になった 外国人選手 ゲイル・ホプキンス」

  • 2023/08/30

 プロ野球選手から外科医へ。もちろん日本人選手では、引退後長い球界の歴史で一人として医師になったという話は聞かない。

 1975年(昭和50年)、広島の初優勝に貢献したゲイル・ホプキンスがその人だ。74年にメ ジャーリーグのドジャーズを退団後、医師への道を目指していたところ、球団初の外国人監督ジョー・ルーツが招請した。

 ホプキンスで最も印象に残っているのは、ユニホームの小脇に抱えた分厚い六法全書のような医学書だった。練習の合間でもロッカーに入ると、少しの時間でも熟読。時にはうっかり練習に遅れたりすることもあった。「向こうに帰ったら猛勉強をして必ず医師の資格免許を取るよ。日本ではそう長くプレーできないだろう。だから広島でボクの野球人生の集大成としたい」と帰国後はメキシコの医大への進路も決めていた。広島大にも足しげく通い、実験を終えた後に球場入りする日もあった。

 さすがに頭の良さは際立っていた。日本の野球に対する理解力も、他の外国人選手にない飲み込みの早さだった。一塁手として、特に二塁手大下剛史のサインとアドバイスは忠実に守った。バッテリー間のサインを見た大下が、ホプキンスの守備位置を指示する。「大下さんの野球知識は素晴らしいよ」と信頼を寄せていた。

 ひとたびグラウンドに出ると、常に全力プレーでハッスルした。真面目さと真剣さがファンにも好感を呼んだ。

 打率は低かった(2割5分6厘)が、33本塁打はカープの球団記録を更新した。91打点もクリーンアップとしての〝ここ一番〟の勝負強さを発揮した証だ。

 ところが、外科医の知識があったにもかかわらず、ホプキンスは故障が多かった。梅雨時期には、日本の気候に慣れてないためか、ふくらはぎの痛みや腰痛に悩まされていた。しかし彼はそれを一切表に出さなかった。試合を休むこともなかった。

 思い出のシーンとして、いまだに脳裏に焼き付いているのは、75年初優勝の日。10月15日の巨人戦。夕闇が迫る後楽園球場(現東京ドーム)。9回に放ったホプキンスの3ランホームランが優勝を決定した。3年前、マツダスタジアムのネット裏にやって来たとき、ホプキンスは「あの日のあのホームランはボクの宝物よ。野球人生の中でも一生忘れられないよ」と笑顔で語っていた。

 広島には2年間在籍後、77年に南海に移籍(現ソフトバンク)して引退した。アメリカに帰国後、現在も長きに渡って、学会で名の通った外科医として手腕を振るっている。

プレスネット2017年1月21日号掲載

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