東広島をふらっと歩いてみませんか。見方を少し変えるだけで、その地域の地理や歴史を物語るものが見えてきます。散策しながら地域を学ぶ「地歴ウォーク」の世界へようこそ。
執筆/広島大学大学院人間社会科学研究科教授 熊原 康博

築100年の建造物
地点⑨には、昭和5(1930)年架橋の河内大橋があります。コンクリート製で、欄干の上部は丸く、一部の支柱は高く造られ、その側面にはランプが取り付けられています。モダンでデザイン性の高い橋です。橋のたもとの木造社屋の玄関ガラス戸には「河内木材合資会社」と記されています。この会社は大正5(1916)年に設立され、松の木材を中心に扱い、河内駅から貨車で全国へ出荷していました。昭和4(1929)年刊行の『建築土木資料集覧』には、現在と同じ社屋の写真が掲載されています。地点⑩には昭和10(1935)年建立の戦死者を弔う忠霊塔があります。

地点⑪には、昭和7(1932)年架橋の河内小橋があり、河内大橋と同様にコンクリート製です。内部の骨材には数㎝大の丸い石ころが用いられ、河内大橋や前号で紹介した城渡[しろわたり]橋とも共通しています。橋の両端の親柱は八角柱という珍しい形状です。

地点⑫の発祥橋は昭和6(1931)年に架橋されました。この一帯には昭和初期の橋や社屋が残り、中河内が活況を呈していた頃の面影を今に伝えています。

河内高校と福原稲造
発祥橋を渡った先には、「広島県河内町立河内高等学校」と刻まれた門柱があります。この地にはかつて河内高校があり、その前身は大正14(1925)年開校の河内高等女学校にさかのぼります。同校は河内町立を経て、昭和49(1974)年に県立へ移管され、その後広い敷地を求めて沼田川対岸へ移転しました。
現在、ここには校舎はなく、初代校長・福原稲造の銅像の台座(地点⑬)が残されています。銅像は戦時中の金属供出で失われ、現在は「河内高校跡地」と刻まれた碑が据えられており、裏面には稲造の来歴が刻まれています。稲造は明治29(1896)年に広島県師範学校(現・広島大学教育学部)を卒業後、賀茂郡内で教員を務め、のちに東高屋村の村長となりました。明治42(1909)年からは白市実科女学校の経営に携わり、加えて白市牛馬市の経営や銀行の支店長も務めるなど、実業家の一面もありました。

白市実科女学校は白市高等女学校へ校名変更した後、河内へ移転して河内高等女学校となったのです。鉄道駅があり発展著しい河内を学校の移転先に選んだのは、実業家らしい判断であったと考えられます。稲造は昭和5(1930)年に没し、その功績を偲[しの]んで翌年に銅像が建立されました。
発祥園と藤野福太郎
発祥橋前の広場は「発祥園コミュニティースポーツ広場」と呼ばれています。発祥園(発祥公園とも呼ばれる)は、河内在住の医師・藤野福太郎が主導して大正時代に整備されたものです。地点⑭には、福太郎が大正天皇の即位を祝して建立した御即位大典記念碑があります。

また地点⑮には大正9(1920)年建立の寄付銘碑があります。この碑の側面には「主事 藤野福太郎」と刻まれ、福太郎をはじめ多くの人々が田畑の提供や寄付を行っています。

どちらにも藤野福太郎の名がある。
園ができる前の地形図(図2)には、この場所に水田の記号が見られます。碑文の「當(当)場埋立地均工事」から、発祥園造成のため田畑を埋めて整地したことが分かります。

2万分の1正式図「中河内(明治30年測量)」「白市(明治30・31年測量)」
発祥園では式典や祭りが行われ、特に11月の胡子[えびす]祭りは競馬や屋台でにぎわいました。大正15(1926)年5月6日付の中国新聞には、前日に招魂祭(戦死者を弔う式)が発祥公園で開かれ、仁輪加[にわか](即興の寸劇)・踊り・花火打ち上げが催され、大変な盛況であったと記されています。
福太郎は河内高等女学校の初代代表理事でもあり、稲造に学校移転を勧めたのではないでしょうか。ただ福太郎は稲造を追うように昭和6(1931)年に亡くなります。
何でも揃った商店街
椋梨[むくなし]川に架かる橋を渡り、南北の通り(深山[みやま]通り・本町)を進みます。この通りは、深山峡を越えて大和[だいわ](現・三原市)とを結ぶ深山道路(現・国道432号)につながっていました。深山道路は、河内駅が設置された明治27(1894)年に計画され、明治34(1901)年に完成しました。この道により、木材などの物資の往来が容易となり、鉄道と車道の結節点として河内が発展することになったのです。
通り沿いには酒造り用の煙突(地点⑯)が残っています。地点⑰付近では呉服店や眼鏡店の看板が見られます。これらは周辺の地域から客がわざわざ訪れる「買回り品」の店です。かつては、金物屋、八百屋、魚屋、本屋、靴屋なども軒を並べており、この通りが地域の商業の中心地だったのです。

地点⑱には、胡子神社があります。胡子神社は商売繁盛の神様です。大正3(1914)年建立の標柱[しめばしら]には、左に「正義生福運」、右に「誠心発祥禎」と刻まれています。正しい行いが福運を生み、誠の心から吉祥が発するという意味でしょう。発祥園の名は、右の柱の「発祥」から付けられたと思われます。胡子祭りが発祥園で行われていたことは、発祥園と神社のつながりを示すものといえます。

地点⑲には、大正2(1913)年に駅前の道路拡幅の際、土地を寄付したことを記す碑があります。ゴールの河内支所へ続く東西の道も、かつては商店街でした。歩きながら、当時の商店の跡を探してみてください。

おわりに
河内駅を中心に巡ると、明治27(1894)年の駅開設を契機として、深山道路の完成を経て、大正から昭和初期にかけて河内が急速に発展した様子が見て取れます。また駅前の発展には、商店街や材木業の盛況だけでなく、発祥園の造成や女学校の移転も支えとなっていたとも言えます。
〈参考文献〉
建築土木資料集覧刊行会編(1929):『建築土木資料集覧』
河内高等学校創立百周年記念事業実行委員会(2009):『広島県立河内高等学校創立百周年記念誌』
河内商工会編(1940):『河内町政大観』
賀茂郡大和町学校教育連盟(1965):『深山道路開通小史』
《ルートの距離》
河内支所(スタート)ー【距離0.7㎞ 】→80番石仏(地点④)ー【1.3㎞】→能光公園(地点⑦)ー【1.0㎞】→発祥橋(地点⑫)ー【0.9㎞】→胡子神社(地点⑱)ー【0.6㎞】→ゴール
計4.5㎞















