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迫田穆成監督があの時を語る 怪物・江川卓の攻略法とは

  • 2021/06/29

さこだ よしあき 1939年、広島市生まれ。 広島商高卒。高校時代は、主将として57年、全国制覇。その後、67年~75年まで広島商高で、93年~2019春まで如水館高でそれぞれ監督を務める。甲子園には春夏で計14度出場。1973年には広島商高を春準優勝、夏優勝に導く。竹原市在住。

 2019年7月から竹原高野球部を率いる迫田穆成さん=竹原市=は、7月3日で満82歳となる県内最高齢の高校野球監督。高校球界では全国にその名がとどろく名将だ。今もノックバットを握り、選手を鼓舞する姿は勝負師そのもの。迫田さんに「好々爺(こうこうや)」の3文字は似合わない。(日川)

 

 

81歳で現役 名将の野球人生に終わりなし

 高校野球の指導歴は35年に及ぶ。一貫して追求したのが「考える(創造する)野球」だ。野球は「間」のスポーツ。一人一人が頭で考えてプレーすることで、力(技術)の差を補える、という思いからだった。

 

 甲子園では、その揺るがない指導理念のもと、指揮を執った広島商高と如水館高で計22勝を挙げた。自らもゲームプランを創造する一方、選手にも考えることを求めた。

 

 迫田イズムが如実に現れた試合が、広島商高を率いたときの1973年選抜・作新学院戦だ。当時、「高校生では打ち崩すことは不可能に近い」といわれた剛腕・江川卓(元巨人)を、「打てなくても勝つ」ゲームプランで攻略。わずか2安打で作新学院を下した試合は、今でも高校野球ファンの間で語り草になっている。

 

 厳しい勝負の世界に生きる監督業を支えてきたのは、徹底したポジティブ思考だ。如水館高時代は、甲子園には出場するものの、結果を残せなくなっていた。それでも、「神さまが、《もっと努力しなさい》と私に試練を与えている」とひるまなかった。前向きな思いは、2011年、同校初のベスト8となって実を結んだ。

 

 柔軟な考え方も併せ持つ。現在、指導に当たる竹原高では、16人の選手たちとラインでコミュニケーションを図る。今年3月からは動画投稿サイト「ユーチューブ」にチャンネルを開設。自らの野球論を語り、選手たちからも好評だ。

 

 80歳を過ぎても、「甲子園出場」の夢がしぼむことはない。竹原高は甲子園出場経験のない普通の公立校だが、「私には野球しか取りえがないですから(笑)。やりますよ」。この人の野球人生に終わりはない。

 

あのときを語る 怪物・江川をなぜ攻略できたのか

 1973年の選抜・準決勝戦。広島商が江川卓(元巨人)を擁する作新学院(栃木)を2-1で下した試合は、高校球史に残るゲームの一つに数えられる。なぜ、「打ち崩すのは至難の業」とまでいわれた江川を攻略することができたのか。広島商の指揮官だった迫田穆成さんが当時を振り返った。

 

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1973年、広島商を率いて甲子園で春準優勝、夏優勝を果たしとときの迫田穆成監督

 

 作新学院の江川卓君を知ったのは、彼が2年生だった1972年の夏。「関東にすごい選手が出たぞ。モノが違う。今すぐプロに入っても15勝は出来る」とプロのスカウトから聞かされたのが最初です。

 

 当時は今のようにビデオが普及していませんから、スカウトの言葉をもとに、江川君打倒の秘策を練りましたね。もちろん、うちも作新学院も翌73年の選抜に出場することを想定してのことです。

 

 考えたのは、うちの攻撃が、(無死か一死)二、三塁の局面になったら、わざとスクイズバントを空振りし、相手がうちの三塁走者を三本間にはさんでいる間に、二塁走者を三塁に走らせる。二塁走者の動きを確認した三塁走者が機を見て本塁に突入、ダイヤモンド側にすべりこんで、相手捕手が三塁走者のタッチアウトをねらう瞬間に、三塁走者の後ろに付いていた二塁走者が逆サイドからホームインするという作戦です。

 

 うちの非力な打線では江川君の球を打ち返すことは不可能だし、バントをしてもファウルにしかならないことを想定し、8月から選抜前の春先までみっちり練習しました。

 

 そして迎えた73年の選抜。江川君を始めて生で見たのは、彼が登場する選抜の開幕カードです。私はバックネット裏から、江川君の投球を選手に見せました。選手たちは彼の投球を見た瞬間、度肝を抜かれたのか静まり返りました。ただ、想像以上の投手だったことが、逆に選手の闘志に火を付けましたね。「江川に勝つとしたら、わしらしかおらん」と、みんな気勢を上げました。

 

 江川君との対戦では、もう一つの攻略法も考えました。打てなくてもいいから、きわどい低めの球は途中でバットを止めてファウルにする―。高めの球には手を出さない―。振りにいったら空振りをするだけです。ボールを見極めることで、江川君からスタミナを奪うことを心掛けました。球を見極めカットする練習も前年から取り組みました。

 

 待ちに待った対戦では、江川君からスタミナを奪う作戦は奏功しました。5回までに106球を投げさせましたからね。スクイズバントを空振りする作戦は、使う場面がなかったのですが、似たような展開で、足技を生かすことができました。

 

 1-1で迎えた8回の四球などで得た二死一、二塁の場面で、二塁走者だった金光興二(現法政大教授)が、「ヒットは期待できない。走らせてくれ」と言ってきましてね。選手の向かっていく気持ちにかけました。結果は、仕掛けた重盗が相手捕手の暴投を誘って勝ち越しに成功。作新学院を下すことができました。

 

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1973年の夏の甲子園決勝で、選手に指示を出す迫田穆成監督

 

 ここ一番の勝負では、自分たちのチームがやられたら嫌だなということを、相手に思い切って仕掛けることできるか、が勝敗を左右するポイントになります。やられたほうは動揺し、ミスをする確率が高くなりますから。作新学院戦は、その典型的なゲームでした。もちろん、私も、選手も「考える野球」を貫いたことが、勝利に結びついたのは言うまでもありません。

 

 ただ、選抜の決勝戦は横浜高に敗れ、日本一を逃しました。私も、選手も江川君に勝ったことで、抜け殻になっていましてね(笑)。横浜には「こういう戦いをしよう」とプランが、私にも選手にも湧き上がらなかった。日本一を逃した分、夏は全国制覇への思いを強く持ちました。とはいえ同じチーム状態では、夏に勝てるという保証はありません。チーム打率を春までの1割4分から、夏には3割4分に引き上げ、進化したチームで挑んだことが、夏の日本一を勝ち取る要因になりましたね。

 

 最後に。私が対戦してきた投手では、ストレートの質では明らかに江川君がナンバーワンでしょう。よく江川君のすごさは、バッターボックスに立った選手でしか体感できない、と言われていました。「監督さん。江川のボールはソフトボールのように大きくなって浮き上がってくるんじゃ」。江川君と対戦した広島商の選手が口々に話していた言葉です。実際は、ボールが引力に逆らって浮き上がることも、魔法をかけたかのように大きくなることもありませんよ。江川君のすごさを物語るエピソードだと思います。

 

1973年の広島商

佃正樹、達川光男(元広島カープ)、金光興二(近鉄(現オリックス))にドラフト指名されるも拒否)、楠原基ら潜在能力の高い選手が揃っていた。春の選抜は、準決勝で作新学院を下すも、決勝で横浜に延長で敗れ準優勝に終わった。夏の選手権決勝では、静岡を九回一死満塁からスリーバントスクイズを決めサヨナラ勝ちで下し、全国制覇を成し遂げた。

 

文・日川剛伸

写真・日川剛伸(過去の写真は提供)

ザ・ウイークリー・プレスネット

2021年7月1日号掲載

 

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